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渋沢栄一・古河市兵衛・相馬家共同経営の足尾銅山

大河ドラマで実業家渋沢栄一を描いた「青天を衝け」が放送されているが、本日は恐らく今回の筋書きには登場しないと思われることを掲載したい。先ずは渋沢栄一について簡単に説明したい。埼玉の名主の長男として生まれた後に、一橋家に仕えて幕臣となり、パリ万国博覧会幕府使節団に加わって渡欧している。維新後は大蔵省官吏を経て第一国立銀行など複数の会社の設立に参画し、実業界の指導的役割を果たした人物であった。彼の思想... 続きを読む

ブログで志賀直哉を扱った私が得た恩恵とは?

 志賀直哉旧居 リンク動画について本日は久しぶりに尊敬する作家・志賀直哉(1883~1971 宮城県石巻市出身)のことを書きたい。動画をご覧頂きたい。志賀直哉ほど引っ越しをした作家も珍しい。一説に生涯23回と言われる彼の引っ越しだが、その数値とて定かでない。だが彼はけしてネガティブな理由で引っ越しをしたわけでない。想像するに、常に作家としての自らの感性を研ぎ澄ませたかったからなのかも知れない。引っ... 続きを読む

私が老境になってから目指すべき人物

神様にあいたい(志賀直哉76歳時NHKインタビュー)本日は久しぶりに志賀直哉の登場である。初めのほうの動画は昭和34年に収録されたもので、直哉が76歳の時のものである。この笑顔を見て頂きたい。親友の武者小路実篤とともに仏文学者の河盛好蔵のインタビューを受ける直哉は温厚そのもので、若い頃のギスギスした印象はすっかり影を潜め、それどころか好好爺と言っても良い印象さえ受ける。自分が76歳になった時のことは... 続きを読む

愛弟子二人による志賀直哉インタビュー

志賀直哉 肉声 ①昭和30年5月 ②昭和34年9月つい最近YOU TUBEでお宝映像を見つけた。それは志賀直哉の愛弟子二人による生前インタビューである。26分のうち前半のインタビューは四人の弟子の中で兄弟子となる尾崎一雄氏の「朝の訪問」(NHK)である。尾崎一雄(1899~1983)このとき(昭和30年5月)の直哉は72歳、弟子の尾崎氏は56歳である。尾崎氏のインタビューで印象深いのは直哉の学習院時代である。... 続きを読む

昭和30年に愛知県の常盤館を訪ねた志賀直哉

志賀直哉 愛知県蒲郡の常盤館滞在一ヶ月ほど前、或るブロ友様から文豪・志賀直哉が愛知県の常盤館に滞在した期間についてお尋ね頂いた。本日はその返答を兼ね、往時のことを偲びたい。この写真が愛知県蒲郡市にある蒲郡クラシックホテル(常盤館)である。直哉がこのホテルに滞在したのは今から60年前の1955年(昭和30年)10月下旬のことだった。彼は1883年(明治16年)生まれゆえ、72歳の時であった。※写真は... 続きを読む

志賀直哉・尾道との出会い

中央大学制作ビデオ 知の回廊「志賀直哉」阿川弘之によると、師匠である志賀直哉が広島の尾道に移り住んだのは1912年(大正元年)11月17日(日曜日)で、今日でちょうど103年目になる。103周年を祝し、今日は彼の作家活動の原点とも言える尾道移住が彼にどんな影響をもたらしたかについて取り上げてみたい。リンク動画では1分30秒~11分55秒までが尾道関係のものである。処女作『留女』を出版することが決ま... 続きを読む

随筆「相馬藩士志賀三左衛門直道と志賀直哉」

 随筆「相馬藩士志賀三左衛門直道と志賀直哉」志賀直哉は私と同郷であり、ずっと後年になって知ったことであるが、小学生の低学年の時分は彼の生家の前を通って毎日通学していたこともあり、何か特別なものを感じている。中学校の教科書に載っていた短編「城の崎にて」をきっかけに「小僧の神様」を読み、徐々に彼のファンになっていった。その後ブランクがあり、50歳をきっかけに彼の様々な作品を読みあさった。倫理観と強靭な... 続きを読む

阿川弘之から見た師匠志賀直哉

NHKあの人に会いたい「志賀直哉」これは青年期の志賀直哉(1883~1971)の横顔である。弟子の阿川弘之(1920~2015)に言わせると、直哉の若い頃は眉目秀麗であり、女性にもてたとのことであるが、それが頷けるような彼の横顔である。彼が住んだ尾道の長屋からは瀬戸内海の島々が眺められたという。「百貫島の灯台が光りだす。それはピカリと光りまた消える…」の名文を生んだ。そして近代日本文学の代表作の一つと言われる『暗夜行路』... 続きを読む

志賀直哉と祖父直道の関係

志賀直哉に影響を与えた祖父直道と相馬事件きょうは①志賀直哉の祖父が巻き込まれた相馬事件についてと②志賀直哉と祖父直道の関係について資料を基に述べたい。相馬事件概要(Wikipediaを基に私が編集)相馬藩(旧中村藩)主、相馬誠胤(そうまともたね)は統合失調症(推定)の症状が悪化したため、1879年に家族が宮内省に自宅監禁を申し入れ、以後自宅で監禁、後に癲狂院(現在の精神科病院に相当)へ強制入院させられた。※相... 続きを読む

朗読、志賀直哉「城の崎にて」

志賀直哉作、大正6年発表「城の崎にて」※その1※その2※その3※その4※本作品は一度本ブログで取り上げたものでこれの朗読版である。私は先日これを仙台市泉区図書館のビデオで鑑賞に及んだ。この時(大正2年)の直哉は東京に住んでいたので汽車に乗ってはるばる関西の兵庫県まで来たことになる。このあたりは父親の財力の恩恵に授かったと解釈していいだろう。ビデオのアニメに登場する主人公はやや面長で鼻筋が通っていて少し... 続きを読む

74年前の早春の旅で志賀直哉が泊まった宿

 或る作家にとっての3月19日とは?あと数時間で3月19日になろうとしている。私は昨年ある小説を読んだ。そしてこの3月19日がこの作家とその息子にとって記念すべき日であったのを生涯忘れることはないだろう。その作家とは志賀直哉、わたくしが尊敬して止まない近代文学の巨匠である。 直哉は57歳となったばかりの昭和15年3月、持病の胆石の痛みからもようやく解放され、無事に進級が決まった中学生の息子(志... 続きを読む

志賀直哉唯一の時代小説「赤西蛎太」

志賀直哉「赤西蛎太」粗筋江戸の仙台坂(現JR大井町駅近く)の伊達兵部の屋敷に赤西蛎太という三十台半ばの侍が居た。彼は雲州松江の出身で訛りがあり、醜男、武骨を絵に描いたような男だった。酒も女もやらず菓子と将棋だけが唯一の楽しみで真面目だけが取り得の男だった。彼には銀鮫鱒次郎という親友がいたが、鱒次郎は蛎太とは対照的に生き生きとした美男子であった。実は二人は伊達騒動の不穏な動きを察した片倉小十郎景長(仙... 続きを読む

読後感想、志賀直哉「朝顔」

  老境の志賀直哉が熱海で書いたエッセイ  きょうは久しぶりに志賀直哉の作品(エッセイ)を取り上げたい。実は以前私は、芥川龍之介に少しだけはまり、「歯車」という作品を読んだのだが、作品に没頭するうちに精神がおかしくなったことがあり、それ以来彼の作品からは遠のいてきた。全般ではないが芥川龍之介のみならず、坂口安吾もそのたぐいである。彼らの作品からはなにか切羽詰ったものを感じ、本能的に遠ざけていた... 続きを読む

ひまは人生に潤いをもたらす

   人は豊かな人生を送るために何が必要か 衣食住は人間には生きていくのに必要なものである。しかしこれらはあくまで生きるための最低限度のものであり、快適に生きるためにはこれだけでは不十分である。人によってはこの他に金が必要という考えもあるのかもしれない。私はそれを否定しないし、人それぞれの考えも尊重しなければならないと思っている。  しかしここで一歩踏み込み、人が豊かで潤いのある人生を送ること... 続きを読む

【動画】志賀直哉の真の魅力とは?

NHKあの人に会いたい「志賀直哉」編きょうはユーチューブで新たな志賀直哉の動画を発見したので、皆さんに紹介したい。始めに、3分10秒以降は今年の元日に私のブログにアップした動画と重複することをお断りする。志賀直哉の魅力とはいったい何なのか?きょうはこの動画をご覧頂きながらその理由に迫ってみたい。神様にあいたい 40秒までは昭和35年に直哉が76歳の時にTV出演したもので、インタビュアーは河盛好三氏... 続きを読む

ひと夏、山陰松江で暮したことがある

 志賀直哉大正14年発表「濠端の住まい」 大正元年から三年にかけては志賀直哉にとっていろいろな出来事のあった年代だった。大正元年に麻布の家を出て尾道に一人住まいした直哉は夏目漱石から東京朝日新聞に連載する小説の執筆を依頼される。返事に詰まっていた直哉はいろいろと考えるうちにどうしてもペンが進まなくなり熟慮の末にこの申し出を断る。  尾道では後に暗夜行路の前身である時任謙作の執筆にも取り組んだ彼... 続きを読む

志賀直哉が四ヶ月住んだ赤城の小屋とは

    俗に染まらない憂鬱の素晴らしさ 今回は前回に引き続き名作「焚火」の舞台ともなり、また志賀直哉が新婚時代の四ヶ月を過ごした赤城山麓のことについてお伝えする。今回の記事の参考にした文献は「志賀直哉全集大2巻」、志賀直哉随筆「赤城山にて」などである。全集第12巻には直哉が生前知人や友人、家族に宛てて出した手紙が掲載されている。この中で今回私が着目したのは大正四年の書簡である。 前回紹介した赤城神... 続きを読む

新妻の静養を目的とした志賀直哉の赤城山暮し

赤城神社の近くの質素な山小屋での新妻との生活 もし、私が「春から初夏にかけて読むのに相応しい小説はありますか?」と人に聞かれたら迷わずにこの作品を勧めるだろう。志賀直哉大正9年発表の「焚火」である。  中央大学製作のビデオ知の回廊「志賀直哉 対立から調和への道程」は今年の元日にも、本ブログで紹介しているが、赤城山関連の画像は12分過ぎあたりから登場する。宜しければご覧頂きたい。知の回廊 第60回... 続きを読む

志賀直哉の古美術趣向と無類の犬好きを描いた作品

 古美術を愛し、犬によって癒された志賀直哉 志賀直哉の末弟子の阿川弘之に言わせると直哉にはその生涯で三度の執筆停滞期があったとされる。一度目は松江、京都、我孫子時代の大正3年~大正6年、二度目は奈良(上高畑)時代の昭和4年~昭和9年、三度目は東京世田谷時代の昭和17年~昭和20年(戦時中)である。三番目の戦時中の停滞は明らかに軍国主義から受ける圧力が大きな原因であり、戦争が終わってからはもう一度筆... 続きを読む

志賀直哉と息子の早春の旅

 息子の成長に感動し、芸術への造詣を更に深めた早春の旅※本記事の内容は文芸春秋昭和16年1月号、2月号発表「早春の旅」(志賀直哉)を基とし、新潮文庫「志賀直哉」(阿川弘之)を参考に私が編集を加えたものである。読者諸兄におかれては記事内容で何か訂正すべきものがあった場合は遠慮なく指摘して頂きたい。 直哉が57歳となったばかりの昭和15年3月、持病の胆石の痛みからようやく解放され健康を取り戻した志賀直... 続きを読む

祝、生誕130周年文豪志賀直哉を偲ぶ旅

石巻の生んだ文豪志賀直哉の生誕130年を祝う小旅 志賀直哉は1883年2月20日、現宮城県石巻市住吉町に生まれた。ということは今年でちょうと生誕130周年を迎えることになる。生誕祭などは彼の遺言によってけしてしないように禁じられているため、私はきょう彼の生まれた石巻を訪ね、おごそかに彼の生誕の節目を祝うことにした。  仙石線とJRバスの乗り継ぎで石巻駅に着いたのは11時ころであった。ご覧のように道路にはま... 続きを読む

志賀直哉の石巻生家と東京麻布の住まい

   志賀直哉石巻生家と東京麻布旧邸  宮城県石巻市で生まれた志賀直哉は物心のつかない2歳までをここで過ごす。この後、彼は生涯で三度ほど石巻を訪れたが石巻の思い出に対してさほど多くを語っていない。このころの直哉のやんちゃぶりを示すエピソードとして、明治17年(直哉が1歳半を過ぎたころと推定)の直哉の実母銀が祖母留女にあてた手紙の一節を紹介する。(手紙は旧かなづかいなので本ブログが現代の言葉遣い... 続きを読む

瀬戸内の名も知らぬ大小の島々が如何にも物珍しく愉快だった

 知の回廊『志賀直哉 対立から調和への道程』 ※動画の最初(1分23秒まで)には製作者である中央大学のコマーシャルが入ります。知の回廊 第60回『志賀直哉 対立から調和への道程』「瀬戸内の未だ名も知らぬ大小の島々、そういう広い景色が、彼には如何にも物珍しく愉快だった」         (志賀直哉、「暗夜行路」前編より抜粋)  小説の神様と言われる作家志賀直哉は生前に23回の引っ越しをしたと言われる... 続きを読む

新春特集私小説「人生の壁を打開する方法」

 私小説「仏閣巡りで人生の停滞を打開する」       はしがき(私が神社仏閣巡りをするようになったきっかけ)   近代文学の巨匠と言われる志賀直哉は当時の小説家としては珍しく88歳の長寿を全うした作家であり、その生涯は順風満帆だったように見える。事実この動画でも紹介されている尾道の住まいも実父からの1000円(今の金で約300万)の援助資金があったからであり、資産家の御曹司として育った彼は... 続きを読む

元祖走り屋?若き志賀直哉のやんちゃぶり

 志賀直哉昭和27年作「自転車」(69才時執筆)読者の皆さんは志賀直哉と言えばどんな印象をお持ちだろうか?極めて強い自我が作りだす倫理観、背筋を伸ばしたような毅然たる姿勢は一見近寄りがたい存在でもあり、気難しささえ感じさせる。事実生前の座談会では同席した同業の作家やマスコミも、志賀が居るだけで一種の緊張感を感じるような雰囲気であったという。 そんな硬派とも言える彼が学習院中等科~高等科時代に傾... 続きを読む
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志賀直哉に学ぶ雪の日の楽しみ方

自分には雪だとじっとしていられない妙な癖があった                    志賀直哉1883~1971 志賀直哉は雪の日の情緒を好んだ作家でもあった。この作品は志賀が千葉の我孫子の手賀沼に移り住んでから4年を経た37歳の時(大正9年2月8日)の日誌を基にして作られた小説である。※千葉県我孫子市の位置を地図で確認して頂きたい。以下白樺文学館HPより転載 写真は「二階家」と呼ばれた書斎(資料提供 ... 続きを読む

大津順吉に見る若き日の志賀直哉の未熟さ

          若き日のとまどいと父との対立 本ブログでは志賀直哉の作品として①短編「城の崎にて」、②中編「和解」、③長編「暗夜行路」④短編「小僧の神様、⑤短編「清兵衛と瓢箪」、⑥短編「山形」と六作取り上げてきた。私はこれらをあえて分類するならば①と②と③と⑥が私小説、④と⑤が比喩を用いた自己表現と捉えたい。  今回紹介するの... 続きを読む

志賀直哉、明治37年の山形の旅

  父との確執を乗り越え強い自我を確立する昨日インターネットで、志賀直哉が書いた私小説「山形」を読んだ。本作は短編ではあるが彼の生きざまと作風を論じる意味で避けて通れないものを感じブログに掲載する次第である。  大正15年12月発表、志賀直哉「山形」粗筋(原作を基に横町がアレンジ) それは明治37年(1904年)、志賀が21歳の時の出来事だった。ふとしたことで父と対立した彼はある日、新しく手に入れ... 続きを読む

志賀直哉「清兵衛と瓢箪」

   志賀直哉 「清兵衛と瓢箪」 本ブログでは今までに志賀直哉の長中短編の作品を4つ紹介してきた。(長編:暗夜行路、中編:和解、短編:城の崎にて、小僧の神様)今回は短編の中でも代表作の一つとされる清兵衛と瓢箪を紹介する。                              清兵衛と瓢箪粗筋 清兵衛は十二歳の少年である。瓢箪が好きで、毎日瓢箪のことばかり考え、磨いたりながめたりしている。しかし... 続きを読む

志賀直哉と石巻

  文豪志賀直哉と石巻の関わり昨日私は親父の五十回忌に際し、墓参りを行うとともに父の生前ゆかりの地を巡ろうと思い、石巻のシンボルである巻石のある住吉公園に足を運んだ。親父も幼き日にきっとこの公園で遊んだに違いない。住吉公園には住吉神社が祀られている。※この日の順路と訪れた地点の位置関係をご確認ください。赤□:JR石巻駅、赤○:住吉神社、黄色○:巻石ここは巻石のある小島に架かる橋から上流側のアングルであ... 続きを読む

自己の倫理観を小僧を通して描く

小僧の神様とは一体誰のことか?もしかして…志賀直哉1883~1971    小僧の神様(大正9年:1920年発表)あらすじ  神田の秤屋で奉公をしている小僧の仙吉は、番頭達の話で聞いた鮨屋に行って鮪の脂身を腹いっぱい食いたいと思っていた。ある使いを頼まれた帰りに鮨屋に入るものの、金が足りずに鮨を食べることができない。仙吉は勇気を振り絞って鮪を置き、大恥をかきながら店を出る。  その時偶然客... 続きを読む

27年がかりで苦悩と悟りへの道を著した長編小説

         長編小説「暗夜行路」   大正6年5月、妻康子(後列右から2人目)、友人武者小路実篤(後列右から5人目)、柳宗悦(後列中央)らとともに千葉県我孫子にて。父との和解を得る三ヶ月前の直哉(後列右から3人目)。多くの良き仲間に囲まれた直哉夫婦の表情が明るい。 彼の人生観(生と死は隣り合わせである)は「城之崎にて」を読んで、また父親との確執と和解... 続きを読む

肉親との和解は涙がつきまとうものである

  志賀直哉著、中編小説「和解」肉親との和解、私にも経験があるが、これは他人との和解とは明らかに異なり、はっきりと一線を隔するものである。主人公の近代的自我が封建的家族制度の中で葛藤する姿を描いた中編小説「和解」。この小説を読みながら私は今は亡き叔父との和解を思い出していた。作家、志賀直哉は複数の事情(渡良瀬川沿岸の鉱毒事件、学生時代に反対された女中との結婚問題)で18歳のころから父と対立、確執を... 続きを読む

生と死は紙一重である

              小説「城の崎にて」                                   作家志賀直哉(1883~1971)小説の神様とも呼ばれた彼は1910年武者小路実篤、有島武郎らと1910年に雑誌「白樺」を創刊した。その「白樺」で19... 続きを読む