fc2ブログ

伊達騒動中心人物・原田甲斐一族供養会の解散と石碑の設置

3871番目の投稿である。地元の新聞である河北新報に寛文事件(伊達騒動)の中心人物とされる原田甲斐宗輔一族供養会(正式名称「三地蔵尊供養会」)の解散と、新たな石碑の設置のことが掲載された。寺は仙台市青葉区新坂町の荘厳寺だが、原田甲斐の菩提寺ではない。供養会のメンバーは寺の檀家や歴史愛好家だということである。2004年から毎年活動(伊達騒動の講座や般若心経の写経など)を行い、2019年まで供養会を開... 続きを読む

ウイークエンドの私・伊達騒動あれこれ

大河ドラマ「樅ノ木は残った」オープニングリンク動画解説大変古いNHKの大河ドラマ・山本周五郎原作『樅ノ木は残った』(1970年放送)である。大河ドラマとしては第8作で全部で52回の放映であった。このオープニングはいわくつきで、様々な能面をいくつかのアングルから映しつつ、強風に翻弄される竹林の映像を映し出すもので、幼い子供は泣いて怖がったとされる。『樅ノ木は残った』は周五郎が独自の視点で伊達騒動(寛文... 続きを読む

伊達安芸仙台屋敷を訪ねて

ブロ友様の銀輪様に伊達騒動に関わった伊達安芸宗重の仙台屋敷の位置をご教示頂いたので、早速行ってみることにした。場所は青葉区の西公園通りの西側でYMCAのプールのほぼ向かい側である。立札の位置がいまいちで後ろに駐輪場が見えているが、家格は伊達一門の第四席ゆえ、敷地は数千坪にも及ぶものと推察している。この肖像画がいつ描かれたのはわからないが、かなり精巧である。遠田郡涌谷の菩提寺に祀られている像を手掛か... 続きを読む

仙台藩士・古内志摩墓所を訪ねて

昨日、私は仙台市泉区古内にある慈眼寺を訪ねた。目的は寛文事件(伊達騒動)で重要な役割を演じた仙台藩士・古内志摩義如の墓所を訪ねることである。旧来までは仙台藩重臣の伊達安芸宗重が江戸幕府大老酒井雅楽頭忠清邸で斬殺された際、仙台藩家老・原田甲斐の乱心が原因とされてきたが、山本周五郎の小説「樅ノ木は残った」では、幕府の陰謀(大老酒井雅楽頭忠清と仙台藩をのっとろうとした伊達兵部の癒着の口封じ)によって行わ... 続きを読む

烈士伊東七十郎の最後を看取ったエドヒガン

烈士伊東七十郎の最後を看取ったエドヒガン去る12月19日(土)のことだった。私は息子とともにできたばかりの仙台市地下鉄東西線に乗って八木山動物公園に行った帰りに市営バスに乗り、愛宕大橋というバス停で降りた。神社へ向かう急な階段を駆け上がるとご覧のようなロケーションが目の前に開けた。ふとそのとき、私はこの見事な枝振りの老木が気になった。このエドヒガンの樹齢は平成18年(2006年)当時で約350年、... 続きを読む

自らの命と引き換えに藩を救った仙台藩士たち

自らの命と引き換えに藩を救った仙台藩士たち現代組織社会と侍社会の相違前回の記事で私は侍社会と現代の組織社会が酷似していることを述べた。ここで両者の決定的な違いも述べておきたい。それは現代に於いての組織社会は憲法第13条の「個人の尊重」と同14条の「法の下の平等」に縛られていることである。即ち、殿様と家臣の関係は公私ともに死ぬまで継続するものであるが、組織社会に於ける上下関係は仕事が終わって会社を離... 続きを読む

原田甲斐実母、慶月院墓所を訪ねて

息子の潔白を死ぬまで信じた母桜もそろそろ見納めとなってきた感のある昨日、私は寛文事件(伊達騒動)の或る中心人物の実母の墓を探す小旅に出た。小旅と言っても地元亘理町に彼女の墓があるゆえ、けしてたいそうなものでない。国道6号線越しに見えるのは阿武隈山地である。江戸から遥かに離れた阿武隈の山深い峰に墓があればけして人の目に触れることはない。彼女の墓は或る事情により、けして表沙汰には出来ないものであった。... 続きを読む

烈士伊東七十郎生誕の地、屋敷跡を訪ねて

私は現在、1671年に起きた寛文事件の研究を進めている。本日友人と訪ねたのは烈士伊東七十郎生誕の地と屋敷跡である。この資料をご覧頂きたい。伊東七十郎の居住地は「北村」という地名になっている。※須知徳平訳教育社新書「原本現代訳伊達騒動上下版」より引用史跡探訪にはある程度勘というものが必要である。メジャーなものは地図やインターネットなどで見つけるのは容易であるが、マイナーなものは第六感ばかりでなく、時... 続きを読む

伊達家重臣茂庭家墓所を訪ねる松山の旅

伊達家に仕えた名門「茂庭家」を偲んで三連休初日となった今日私は友人とともに、JR東日本小牛田駅企画のJR小さな旅「茂庭家歴史探訪」に参加した。集合時間の定刻9時45分より一時間以上前に到着した私は物見遊山で松山駅周辺の散策に及んだ。その後友人と落ち合い、取り留めのない雑談を交わした。それにしてもローカルな雰囲気である。定刻となってJRの担当者とガイドさんの挨拶があり、スタートと相成った。18名の参加者の... 続きを読む

誰が忠臣?誰が逆臣?

今年の夏に私のもとに或る仕事が舞い込んだ。それは或るところから依頼された歴史エッセイの執筆である。何を題材にするかの選択肢は私に与えられることとなったが、私は迷うことなく寛文事件(伊達騒動)を選んだ。その中で私は「樅ノ木は残った」のストーリーの如く、原田甲斐が忠臣の可能性があり、伊達兵部は逆臣であり、伊達安芸は甲斐と心の通じ合った仲であると書いた。そのエッセイが活字となって一ヶ月も経たないうちに私... 続きを読む

三沢初子墓所(政岡廟)を訪ねて

 幼君亀千代を毒殺から守った政岡の廟所先月末の8月29日は偶然にも寛文事件(伊達騒動)に関係した伊東七十郎の墓所を発見しブログに発表したばかりであるが、きょうはまたしても偶然に三沢初子(通称政岡:4代仙台藩主伊達綱村の生母)の廟を発見するに至った。寛文事件は昨年末ころから研究を進め、歴史エッセイも書いていた折であったゆえ、何か因縁めいたものを感じている。この建物は政岡廟案内所である。詳しくはわから... 続きを読む

烈士伊東七十郎墓所を訪ねて

 烈士伊東七十郎墓所を訪ねて去る8月23日(土)のことだった。仙台市南東部に位置する霞目で横綱谷風の墓を訪れた私はその帰り道に市営バスに乗り、若林区新寺地区を訪ねた。目的は寺巡りである。一つ目の寺を見終わった私は駅のほうに向かった。すると歩くこと数百メートルで由緒のありそうな古刹の前を通りかかった。寺の名は栽松院である。都心の中の寺町なのにミンミンゼミの鳴き声が賑やかである。緑陰が束の間の涼をいざ... 続きを読む

「盡忠」とは非常に重い言葉である

民放「樅ノ木は残った」オープニング藩に殉じ、伊達家4代目綱村公から「盡忠」を賜る昨日に引き続き、今回も1671年に起きた寛文事件(伊達家お家騒動)の際、犠牲となりながら仙台藩を守った一人の重臣、伊達安芸宗重にスポットを当てたい。彼が居城を賜っていたのは涌谷、立地的には仙台平野の中央に位置し、仙台からざっと60キロあり、馬なら一日、徒歩なら二日かかる位置であった。江戸に向かおうとする伊達安芸、この時... 続きを読む

仙台藩片倉景長屋敷、原田甲斐屋敷の探訪

 寛文事件の生き証人逆さ門と原田甲斐屋敷前々回の記事で寛文事件に関係した仙台藩士の屋敷跡を紹介したが片倉小十郎屋敷と原田甲斐屋敷がはっきりしなかったため、本日探索してみた。先ずは片倉小十郎(景長)屋敷である。以下、Wikipediaより引用片倉 小十郎景長(かたくらかげなが)(1630~1681)仙台藩伊達氏の国家老及び白石城城主。松前安広の子で母は片倉重長の娘喜佐。外祖父重長に男子が無かったため養子となっ... 続きを読む

伊達騒動入門編その2

伊達騒動に関連する仙台藩重臣屋敷跡を訪ねて※昨日投稿した記事に伊達騒動関連の重臣に新たに①奥山大学②茂庭周防定元③里見十左衛門の三人を加えたので興味のあるかたはご覧頂きたい。昨日は半日かけて伊達騒動に関係した仙台藩士の屋敷跡を七箇所回ってみた。まずこの概略図をご覧頂きたい。(データ提供:ロッソさん)主な人物の敵対関係を赤線で、同盟関係を青線で、どちらとも判定のつかない関係を黄色線で表してみた。上段右か... 続きを読む

伊達騒動入門編その1

 山本周五郎「樅ノ木は残った」概要「伊達騒動(寛文事件)の研究」について筆者挨拶伊達騒動(寛文事件)は江戸時代に於ける三大お家騒動の一つとも言われ、仙台藩の内情と幕府の思惑(外様大名取り潰し)の重なった非常に複雑な事件として存在し、これまで様々な人々が解明に挑んだが全容が解明されていないものである。伊達騒動は伽藍千代萩などの大衆演劇の題材として江戸時代から人々に親しまれてきており、人々の間には劇か... 続きを読む