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奥州相馬の聖地・相馬太田神社を訪ねて

奥州相馬の聖地・相馬太田神社を訪ねて本日は一昨日の8月14日に訪れた南相馬市の相馬太田神社についてお伝えしたい。この日の交通手段はJR常磐線・磐城太田駅から自転車でのアクセスであった。駅から相馬太田神社までの距離は2キロ弱ほどである。中央の林のあたりが相馬太田神社である。周囲との比高は数メートルしかないので、700年近く前にここに奥州相馬氏の祖・相馬重胤公の館があったと言えれても、なかなかピンと来な... 続きを読む

相馬家歴代当主の廟所・同慶寺

相馬家歴代当主の廟所・同慶寺相馬野馬追を一週間後に控えた去る7月16日(土)、私は南相馬市の小高神社(小高城址)を訪ねたついでに相馬家の16代以降の当主が眠る同慶寺を訪ねた。同慶寺は小高神社から西に800メートルほど行った場所にある。ここが同慶寺の入口である。同慶寺の位置を航空写真で確認して頂きたい。赤:同慶寺オレンジ:小高神社(小高城址)黄色:常磐線小高駅階段を登りきってから寺門に至るまでこのよ... 続きを読む

いよいよ明後日から相馬野馬追

相馬野馬追・北郷・総大将お出迎えのシーン(以下の写真は2015年7月25日に私が撮影したものです。)中央のかたが副大将を務める海老原氏です。北郷(南相馬市鹿島区)では副大将の海老原氏が総大将(相馬家第33代当主・相馬和胤氏の御子息)をお迎えするのが毎年の慣わしとなっています。海老原副大将は祖父の時代に野馬追への功労があり、16年連続で副大将を務めています。北郷本陣に入る総大将・相馬行胤公。行胤公は... 続きを読む

今年の相馬野馬追に伴う私の予定

相馬野馬追 総大将出陣今年も国指定重要無形民族文化財である相馬野馬追が近づいた。相馬氏下総国北西部(現在の千葉県北西部)や陸奥国南東部(現在の浜通り夜ノ森以北)を領した大名。桓武平氏良文流千葉氏の支流。通字は「胤」(たね)。初代の相馬師常は、鎌倉時代初期の武将千葉常胤の次男である。師常が父常胤より相馬郡相馬御厨(現在の千葉県北西部で、松戸から我孫子にかけての一帯)を相続されたことに始まる。戦国時代... 続きを読む

旧道「夜討坂」を訪ねて

 旧道「夜討坂」を訪ねて旧道にはロマンがある。旧道に佇み、目を閉じ在りし日の昔人の想いに浸れば、かすかに遠い日の喜怒哀楽が瞼に浮かんでくる。悠久の時の流れに己の身を委ねれば、是あたかも大河に浮かぶ小舟の如し。小舟が激流に飲み込まれてひっくり返るも、しばし緩い瀬をゆったりと行くものになるも、全ては運任せである。今まで私は様々な旧道に接してきたが、昨今は想像できる範囲を少しでも膨らませ、幻影(小舟の行... 続きを読む

つわものどもの怨讐渦巻く夜討坂

 つわものどもの怨讐渦巻く夜討坂私と息子は阿武隈山地の鴻ノ巣峠の断崖絶壁に遭遇した後、尾根道を更に南に迎い遂に夜討坂(ようちざか)に出た。鴻ノ巣峠から閑居山までは10分以上時間を要したが、閑居山から夜討坂まではわずか数分しか掛からなかった。ここは戦国時代に伊達が相馬に夜襲を仕掛けた際に通ったとされる道である。亘理側から伊具(角田、丸森方面)に抜けるということは尾根道とは「十の字」に交差することにな... 続きを読む

殿様の墓なのに何故質素?相馬盛胤公墓所を訪ねて

相馬15代当主盛胤公墓所を訪ねて今年の4月から相馬転勤となり。それまでの休日の史跡巡りの傾向が大幅に変わった。それは宮城県南部の丸森町、山元町、福島県浜通北部の新地町、相馬市の古城跡や合戦場への訪問である。歴史考察は私見にこだわらず、様々な角度で史実を見定めようとする姿勢が大切である。私はそれを視野に入れ、複数の文献を読みあさり、伊達側、相馬側のどちらにも偏らないように、なるべく交互に双方の立場に... 続きを読む

相馬義胤の好んだ鋒矢型の陣形とは?

1576年夏、矢野目館に於ける相馬の大勝去る9月20日、私は伊達と相馬が戦国時代に激しく争ったとされる宮城県伊具郡丸森町を訪ねた。この日の目的は攻防の大きな拠点となった柴小屋館(小斎城)と矢野目館を訪れることである。小斎城は先日紹介したので今回は田園地帯に浮島の如く存在する矢野目館(矢の目館)の番である。この館は昨年の7月に訪れたばかりであるが、居住者のかたに歴史エッセイ(伊達と相馬の相克シリーズ)を... 続きを読む

佐藤為信討ち死にの謎

  不自然な佐藤為信の討ち死に昨日の9月20日、私は宮城県南部の丸森町の小斎地区の鹿島神社他を訪ねた。鹿島神社ではタイミングよく神主さんに会い、名刺(伊達と相馬の研究)を渡したところ、初代当主佐藤為信の鎧甲を見せて頂ける運びとなった。鹿島神社は起源を平安時代に遡る非常に由緒ある神社である。本ブログでは二度に渡って佐藤為信を紹介しているが、何れも不確かなものである。今回は数冊の文献やインターネッ... 続きを読む

福島民謡相馬流山の起源となった或る武将とは?

相馬流山by小山みつなリンク曲「相馬流山」解説byミック「流山」は相馬中村藩祖の故郷「流山」(今の千葉県流山市)の地名にあやかったものである。1323年、相馬重胤が従者三十余人を率い、住み慣れた下総を後に、奥州相馬地方に下向した際、口ずさんだものとも言われる。一方で土地の酒造りの時にも歌われたり、鎌倉武士の間に親しまれたとも言われる。元々は侍の間に歌われたもので、相馬野馬追には出陣式時に歌われ、曲も歌... 続きを読む

相馬武者の熱き志、甲冑遍

Queen We Will Rock You相馬武者の鎧甲とは?7月26日(日)私は相馬野馬追二日目を観るために南相馬市(旧原ノ町市)を訪れた。相馬野馬追にQueenのこの曲(WE Will Rock You)はミスマッチのような気がするが、鎧兜を纏ったいかつい武者たちに意外なほど合っている。今から合戦に及ぶという緊張感と武者特有の屈強な精神力、往年のQueenの名曲をしてそう感じさせるのかも知れない。JR原ノ町駅構内の野馬追の絵をバックに相馬武... 続きを読む

相馬野馬追前の下見

2009相馬野馬追大手門よりの出陣相馬野馬追まであと一週間来週火曜日から金曜日まで有給休暇を取った。従って今日から9連休である。相馬野馬追まで後一週間に迫った今日、9連休の初日をどう過ごすかについて迷いは一切なかった。私は本日、震災以来4年4ヶ月ぶりに福島県南相馬市を訪ねた。代行バスと電車を乗り継ぎ、JR原ノ町駅に着いたのはAM9時半頃であった。「感無量」という言葉があるのならこうしたシチュエーション... 続きを読む

平将門と奥州相馬氏の関係

 平将門と奥州相馬氏奥州相馬家は現在の藩主である和胤(かずたね)氏で第33代となる。6代・重胤(しげたね)の時、下総(今の千葉県北部)から現福島県浜通り北部(相馬地方)に移ってきたという。相馬野馬追は有名な祭りであるが、実は領地が下総(しもふさ、現千葉県北部~茨城県南西部)であったころに平将門(たいらのまさかど:別名・相馬小次郎)によって始められた軍事訓練であったと言われる。大平の世となった江戸時... 続きを読む

相馬隆胤公首塚を訪ねて

相馬市黒木地区の相馬隆胤公首塚27日前の5月4日に私は相馬藩第16代藩主である相馬義胤公の弟隆胤公が討ち死にをした童生渕を訪ねた。隆胤公討ち死にに関しては後に多くの考察が寄せられている。読者の皆様には大変申し訳ないのだが、何せ425年も前のことゆえ、これらの諸説はむろん特定には至っていない。何卒それを承知の上で拝読賜れば幸いと思う。画像でほぼ正面に位置するのが隆胤公の首塚のあるところである。迷わず... 続きを読む

花は相馬に、実は伊達に

戦国の世に築かれ、城主を変え幕末まで居を構えた蓑首城連休中の5月4日、宮城県亘理郡山元町の愛宕山城を訪ねた私は目と鼻の先にある蓑首城(みのくびじょう)へと向かった。こうした史跡探訪で欠かせないのは周囲の環境をよく観察し、往時の思いを頭の中にイメージすることである。ただ観察するのみでなく出来れば往時の武士(もののふ)に成り切りたい。即ち、単なる史実のみの羅列に留まらず創作に及ぶのなら、この成り切りこ... 続きを読む

相馬直系の殿様の討ち死にが及ぼした影響

後世に大きな遺恨を生んだ相馬隆胤公の討ち死に創作活動全般に言えることであるが、歴史研究に於いて一番怖いのは何と言ってもモチベーションの低下である。どうすればモチベーションを下げないで執筆意欲を保つのか。私は常にこれを念頭に入れ、己の煩悩と戦っている。今回取り上げる「童生渕の戦」は戦国時代の伊達、相馬に於ける一つの戦ではあるが、刃をまみえた両軍の兵の数が非常に少ない戦ゆえ、恐らく両軍の合戦の中では知... 続きを読む

相馬市歴史資料収蔵館を訪ねて

福島県民謡「相馬流れ山」遍山銘尺八連休も後半となった本日私はかねてから意中のスポットに足を運んだ。1611年から相馬の拠点とされた中村城からほど近い「相馬歴史資料収蔵館」(左の建物)である。航空写真で「相馬歴史資料収蔵館」の位置を確認して頂きたい。中村城の外堀の東端からは100メートルほどの場所である。同館の内部は撮影禁止であるが「私は伊達と相馬の相克の研究をしており、古戦場や古城を巡り、これを歴... 続きを読む

相馬野馬追に込められた相馬人の志

福島県民謡「相馬流山」4月1日から相馬勤務となった。その地に赴任したからにはとことんその地を好きにならねばならない。私はそういう一心で帰宅時に相馬駅前の相馬図書館に立ち寄った。相馬図書館はこの建物の2階にある。宮城県在住のゆえ、手続きに時間が掛かったが数日を経てこのような貸出券を手に入れた。昨日、早速借りたのがこの本「相馬野馬追」福島中央テレビ企画、岩崎敏夫著である。著者はこの本の中で相馬藩が幕末... 続きを読む

伊達と相馬の相克を振り返る

プライドを賭けた名門同士の戦い  はしがき4月から相馬転勤が決まった。そのような折、私が次の歴史研究テーマとして掲げたいのは「伊達と相馬の戦い」である。そのきっかけは二年前に遡る。2013年の2月16日に仙台市博物館で行われた仙台市史セミナー「戦国時代後期の伊達と相馬の相克」(講師、東北福祉大学岡田教授)の受講である。時は16世紀の半ば、この時期の伊達と相馬は各々の領土拡大をもくろみ、様々な場所で... 続きを読む

相馬野馬追出陣式で相馬武者の心意気に触れる

 2014.7.26 相馬当主名代相馬陽胤公口上千年以上も継続する勇壮な戦国絵巻「相馬野馬追」、その出陣式を見るためきょうは3時半に起床した。時刻は8時半、例年のように宇田郷の相馬市中村神社には相馬武者の出陣を一目見ようとこのような大群衆が詰めかけていた。某は先祖が伊達藩の身であるが相馬武者には一目も二目も置いている。相馬は六万石余りの小藩なれど伊達六十二万石から見て、手ごわい宿敵という印象がある。それ... 続きを読む

伊達-相馬の攻防拠点小斎に築かれた古城跡を訪ねる

相馬から伊達に寝返り、小斎を任された一人の武将一昨日、バイク仲間と丸森町(宮城県南部)を訪れた私は小斎という部落を訪ね、ある古城に足を運んだ。ご覧の通り、バイクを止めた地点は果樹園と野原が広がっている。昔この地に佐藤為信という武将が住んでいた。佐藤氏は源頼朝に仕えた武将の末裔と言われる。その後相馬氏に使え、伊達政宗に寝返ったとされる。屋敷は明治時代まで存在したらしいがその写真をインターネットで探す... 続きを読む

伊達政宗の戦シリーズ(相馬編)

  宿敵相馬との戦いに臨む伊達政宗の初陣 本ブログでは伊達政宗の研究と題して今まで政宗に関することをいろいろと取り上げてきた。しかし彼の研究をするにあたっては戦ってきた数々の戦を除いては成り立たない。政宗が出現するまでの伊達家は現山形県米沢市に居を構える一戦国武将に過ぎず、それほど目だった存在の大名ではなかった。それが彼の出現でまさに破竹の勢いで領土を拡大し始めたのである。  その背景には戦い... 続きを読む

戦国の世の「奥州の作法」とは?

     戦国における伊達と相馬の関係 去る2月15日の晩のことだった。帰宅時に三日月に近い上弦の月が出ていた。この月はご存知の通り、伊達政宗の鎧兜に用いられたデザインであり、古来から魔除けの意味のあるものであると言われている。折しも翌日16日は伊達家に関する仙台市史セミナー「戦国時代後期の伊達と相馬の相克―」のある日であった。  奥州統一の後はその隻眼を天下へ、三日月に宿る不思議な魔力…、稀代... 続きを読む