海賊フランシス・ドレークは悪党なのか?それとも… 本ブログには「大海原を駆けた英雄たち」というカテゴリーがあるが、最寄りの更新が2019年の6月なので、実に4年ぶりの更新となる。本日の主人公はイングランドのフランシス・ドレーク(1543~1596)である。実は本日のPM、ディスカバリーチャンネルでフランシス・ドレークと彼のいとこであるジョン・ホーキンスの伝記のような番組が放映され、大いに感銘を受けた。マゼラン(ポルトガルで生誕、後にスペインで活躍)... 続きを読む [タグ] フランシス・ドレーク ジョン・ホーキンス ラム酒 マイヤーズラム
五百年前の胡椒は超高級品であった 昨日、私は久しぶりで朝マックを利用した。目的は読書である。青葉区一番町のマックはホームグランドではないが、時間のない時にたまに立ち寄る程度である。今読んでいる本は羽田正氏著「東インド会社とアジアの海」である。大航海時代に、いち早くアフリカ南端の東回り航路を拓いたポルトガルの狙いの一つは胡椒などの高価な香辛料であった。今は百均で買える塩胡椒だが、往時の香辛料は非常に高価な品であった。著者の羽田正氏で... 続きを読む [タグ] 大航海時代 香料諸島 羽田正 胡椒 ナツメグ
新たな歴史研究テーマ玉蟲左太夫 仙台藩士幕末世界一周今、或る仙台藩士の本を読んでいる。その本は『仙台藩士幕末世界一周』玉蟲左太夫(たまむし さだゆう)外遊録である。訳者の山本三郎氏は玉蟲左太夫の子孫に当たる人物である。玉蟲左太夫(1823~1869)仙台藩士玉蟲伸茂の末子として生まれる。1846年(弘化3)に江戸の湯島聖堂で学び、その塾長となる。1857年(安政4)に箱館奉行堀利煕と共に蝦夷地を調査し「入北記」を著す。1860年... 続きを読む
無敵艦隊はなぜ敗れ去ったのか? スペイン国歌「国王行進曲」15世紀から16世紀に於いて世界各国を植民地とし、日の沈まぬ大国と言われたイスパニア(現スペイン)の栄誉を祝し、先ずは同国国歌(国王行進曲)をリンクした。動画に於いては奥州の覇者伊達政宗が派遣した支倉常長が立ち寄った施設が多く散見される。このあたりにも着目頂ければ幸いである。出入りの図書館で石出みどり著「スペイン」を借りた。この本は極めて興味深い内容に溢れていた。特に往時... 続きを読む
大航海時代のポルトガルが抱いた野望&香辛料から得た莫大な富 115名の命と引き換えに得たインド航路以下「歴史を変えた大航海の世界地図」、「大航海者の世界ヴァスコ・ダ・ガマ」、Wikipediaより引用の上編集1488年、喜望峰に到達したバルトロメウ・ディアスの帰国後、ポルトガルには不吉なことが続いた。国王ジョアン2世の病気、落馬による王子の死、王位継承でのもめごと…、そうしている間にライバルである隣国スペインはコロンブスによる大西洋横断航路開拓という快挙を成... 続きを読む [タグ] ヴァスコ・ダ・ガマ シナモン ナツメグ
新春特集大航海時代のポルトガルが抱いた野望その2 西洋人として初めてアフリカ最南端に達するポルトガルのアフリカ西海岸開拓事業は1460年のエンリケ航海王子の死去以来停滞する。その理由は財政難であった。それでも開拓事業は継続したい…。当時国王だったアフォンソ5世はこの二つの条件を満たす極めて合理的な方法を考え出した。それはリスボン在住の富豪家、フェルナン・ゴメスと5年契約を結び、一年に640キロずつ南下する代わりに貿易圏を独占できるというものであ... 続きを読む
新春特集大航海時代のポルトガルが抱いた野望その1 ポルトガル国歌直訳 この曲は1910年に作られた曲であるが、私は大航海時代の同国の抱いた野望を現代に伝えるものと判断し、また海洋王国と言われた同国に敬意を表し、熟慮の上で掲載を決めたものである。この曲には様々な曲折を乗り越え、海外への進出を果たした同国の威厳とフロンティア精神を強く感じるのである。 海の勇者、気高き人々。勇敢で永遠なる国、今こそ再び立ち上がれ。 ポルトガルに栄光を... 続きを読む
マゼランの世界一周(後編) あまりにも壮絶なマゼランの最後だが、残された乗組員は奮闘した。 昨日の前編と前後するが、海峡を苦難の末通過した際に難破と逃亡でマゼランは2隻の船を失っていた。残り3隻となった船団はしばらくは平穏な海を航海できたため、マゼランはこの海をマール・パシフィコ(平和な海)と名づけた。(太平洋の名の由来) その後、大海原で島を見つけることができずに、貧窮した食糧による飢餓と劣悪な衛生状態で多くの乗組員が死ん... 続きを読む
マゼランの世界一周(前篇) マゼランの大いなる野望 今日は人類初の世界一周を成し遂げたポルトガル人、フェルディナンド・マゼランについてのノンフィクションをお伝えする。歴史を変えた大航海の世界地図他から引用して、私のアドリブと比喩を加えた。 ヴァスコダガマが1499年に苦心の末、アフリカ南端東回りによるインドへの新航路を開拓した後、ポルトガルの目は宝石に匹敵する高価な香辛料獲得に向けられていた。そんな中、ポルトガルの下級貴族だ... 続きを読む
支倉常長その9 帰国後、支倉から交渉が失敗したとの報告を受けた政宗は、断腸の思いで仙台藩領内のキリスト教禁止に踏み切った。幕府からキリスト教禁止令が出ている以上、政宗はこうするよりほかになかったのである。仙台に帰ってから失意のうちに没した支倉はその後歴史の中に葬り去らたが、7年間の長い年月をかけてのこの事業は偉業というほかない。主君伊達政宗の命を忠実に貫いた支倉常長は、まさに武士の中の武士、男の中の男である。私も... 続きを読む
支倉常長その8 ローマに到着した支倉は元和元年9月12日(西暦1615年11月3日)ついにローマ法王パウロ5世と謁見する。しかし法王からは(スペインとの交渉の)後ろ盾になるとの答えは得られなかった。当時江戸幕府は教会を破壊したりキリシタンを処刑するなど、支倉ら使節団には逆風が吹いていたのである。交渉にいきずまった支倉は目的を果たせないまま失意のうちに、日本に帰国した。... 続きを読む
支倉常長その7 スペインとの交渉がうまくいかない支倉は、スペインがカトリックの国であることに目をつけ、ローマ法王から交渉の後押しを願おうとローマに向かった。使節団は行く先で歓迎を受け、支倉は途中のマドリードでキリシタンの洗礼を受ける。洗礼名は「ドン・フィリッポ・フランシスコ・ハセクラ」支倉には貴族の称号が与えられた。写真上段はローマで描かれた高貴な絹の着物を羽織った全身の肖像画、下段はキリシタンとなって敬謙な祈り... 続きを読む
支倉常長その6 90日間の太平洋横断の航海の後、メキシコに着いた使節団一行は陸路を経て今度は大西洋を横断、スペインに到着した。そして慶長20年1月2日(西暦1615年1月30日)にはイスパニア(スペイン)国王のフェリペⅢ世と謁見を果たした。「奥州の王(伊達政宗)はその領土を陛下(フェリペⅢ世)にささげる」これに対して国王の答えは単なる挨拶にとどまった。…続く... 続きを読む
支倉常長その5 500トンの巨大木造船とは言え、嵐に遭遇すると船は木の葉のように揺れた。大シケの中、幾度も大波を受けて船が転覆しそうになったとき、船長ビスカイノは「船が沈むから積荷を捨てろ!」と叫んだ。これに対して支倉は「積荷を捨てることは殿(政宗)に対しての反逆とみなす。そういう者はこの場で成敗いたす」と刀を抜いた。宣教師のルイス・ソテロが「支倉様、血を流すのはおやめください」と言ってなだめたため、支倉は刀を鞘... 続きを読む
支倉常長その4 慶長18年(西暦1613年)9月15日、支倉常長(副史)ルイス・ソテロ(正史)率いる慶長遣欧使節団総勢180人はサンファンバウティスタ号に乗って仙台藩牡鹿半島月ノ浦(現石巻市)から太平洋へと出帆、最初の目的地であるメキシコを目指した。…続く... 続きを読む
支倉常長その3 サンファン号の建造中、政宗は幾度となく現地を訪れその意気込みを家臣に語った。「わしの目の黒いうちは家康殿の好き勝手にはさせぬ。必ず天下を取ってみせる。そのためには今回のイスパニア(スペイン)への使節派遣を必ず成功させるのじゃ。伊達者の名に恥じぬように、イスパニアの国王に臆することなく堂々と渡り合ってくるが良い。ただし物腰は低くすべし」と。左から支倉常長、伊達政宗、スペイン人宣教師ルイス・ソテロ、ス... 続きを読む
支倉常長その2 徳川幕府から江戸城築造などの普請を課せられて、経済力をしぼり取られていた伊達政宗は慶長18年(西暦1613年)夏、500トンにも及ぶ巨大木造船の建造に着手した。目的はヨーロッパとの直接貿易による藩の財政の確保、もうひとつは天下取りの野望(弾圧されている日本のキリシタン30万人の力を借りて幕府を倒し自ら実権を取る)のためであった。船の建造には優秀な船大工が動員され、スペインなど当時の最先端の造船技術... 続きを読む
支倉常長その1 大航海時代の英雄と言えば、コロンブスやヴァスコ・ダ・ガマ、マゼランやキャプテンクックらを思い浮かべる人が多いだろう、しかし日本でも鎖国体制の江戸時代に、ヨーロッパに渡った人物がいたことをご存知だろうか?今からお伝えするのは時代の波に翻弄され、数奇な運命をたどった一人の侍の実話である。男の名は支倉六衛門常長、通称支倉常長、仙台藩主伊達政宗の家臣だった常長は朝鮮出兵や一揆鎮圧で功労が評価され、政宗に見... 続きを読む
コロンブスのたまご コロンブスの成功を祝う式典で「西へ行けば誰でも陸地にぶつかる。大陸発見は造作のないことだ」となじられた彼はこう言った「誰かこの卵を机の上に立ててみてください」…誰もできなかった後でコロンブスは卵の先っぽを割って立ててみせて言った「人のした後はたわいもないことです」(転じて一番最初にすることは難しいことである)私は人の成功をひがんで正当な評価のできない人間に言ってやりたい「一番最初に物事を成し遂げる... 続きを読む
コロンブスその3 コロンブスの乗る旗艦、サンタ・マリア号と2隻の帆船は乗組員90名で1492年スペインのパロス港を出帆、カナリア諸島を経て大西洋を西に向かった。だが行けども行けども陸地がない…不安にかられた乗組員は一時反乱寸前になったがコロンブスは「君たちには富と栄誉が待ち受けている」と説得。あと3日だけ航海を続け、陸地が発見できなかったら引き返すと乗組員に約束した。 しかし神はコロンブスを見捨てなかった。2日目... 続きを読む
コロンブスその2 コロンブスはいい返事のなかったポルトガルに見切りをつけて、今度はスペインにこの計画を持ち込み6年を経てこの計画は採用された。コロンブスの考えはこうだった。「地球は丸い。その表面の7分の6までは陸地である。大西洋は皆が思っているよりもずっとせまい。カナリヤ諸島(アフリカ北西部の島々)からジパングまでは4400キロしかなく、40日もあれば到達できる」これはほとんどが誤りだった(当時アメリカ大陸は地図に... 続きを読む
コロンブスその1 (以下、歴史を変えた大航海の世界地図より抜粋)1483年末、風変わりな男がポルトガル国王のもとを訪れていた。「太平洋(現大西洋)を西に進めば香料の宝庫、インディアス(東アジア)と黄金の国ジパング(日本)がある。そこではキリスト教を広めることもできる」男の名はコロンブス、彼は言うことも変わっていたが成功報酬も法外(提督の称号、発見地の副王の地位、莫大な金銀、土地などの財産…)なものだった。当時、ポル... 続きを読む
ヴァスコ・ダ・ガマその3 カリカットに到達したガマは、友好関係を築くために現地の王と交渉するがうまくいかず海賊と間違えられて立腹し、大砲を撃ってカリカットを去る。復路インド洋は風向きが悪くアフリカのマリンディに着くのに3ヶ月を要し、多くの乗組員が壊血病で命を落とした。1499年夏、2隻となった船団がリスボンに着いたとき、乗組員は出航時のわずか約3分の1の55名になっていた。しかし多くの犠牲者と引換えにポルトガルは、香辛料の... 続きを読む
ヴァスコ・ダ・ガマその2 旗艦サン・ガブリエル号をはじめとする4隻の船団はポルトガルの航海史上、初めて大きな円を描くようにアフリカ大陸を大きく離れて一時は南米大陸にかなり近づくほど遠回り(一説にはギニア湾の無風地帯を避けた…別な解釈としては新大陸発見のため?)して、3ヶ月と5日もかけて喜望峰の北西部190キロのセント・ヘレナ湾にたどり着いた。1498年11月22日に喜望峰を回りモッセル湾へその後、ビタミン不足からくる壊血病... 続きを読む
ヴァスコ・ダ・ガマその1 (以下歴史を変えた大航海の世界地図より抜粋)1497年7月8日、ポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマは乗組員約170人とともにリスボン市民の盛大な見送りを受けてリスボンを出航した。目的はヨーロッパ人として初めてアフリカ南端周りでインドへ渡って、当時非常に高価だった香辛料を得る(新航路開拓による貿易)ためである。この任務は非常に危険な任務として、特赦を受けた死刑囚が10名ほど加わっていた。... 続きを読む