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岩切地区曹洞宗東光寺を訪ねて

本日は4月4日に訪れた宮城野区岩切地区の曹洞宗東光寺についてお伝えしたい。現在の今市の町は東光寺の門前町として拓かれた。入口から山門を望んでみた。入口の西側(向かって左側)にはこのようなお堂が建っている。傍には地元の岩切歴史探訪会の説明書きがあるようだ。お堂にはガラス張りのサッシがつき、その中にあかぎれ地蔵が保存されているようだ。写真撮影を試みたが、反射して上手く撮れなかった。山門を潜って境内に出... 続きを読む

東街道岩切地区への再訪

本日は去る3月22日以来、懸案になっていた宮城野区岩切地区の再訪を果たした。目的は藩政時代の初期にこの地区の開拓に功のあった兵藤大隈信俊(通称:兵藤信俊)を偲ぶことである。その他、東街道に絡むスポットとして東光寺(下記Google3D立体画像の上部参照)などを順次バイクで回った。東光寺の門前町として開けた今市の町を南北に貫く道は石巻街道とも旧利府街道とも呼ばれるが、私の中では東街道(仮説)と認識している... 続きを読む

兵藤大隅信俊居館・稲荷館を訪ねて

昨日、私は仙台市宮城野区岩切地区を訪ねた。目的は或る館跡の探訪である。例によって紫桃正隆著『仙台領内古城・館』の第4巻を参照の上での訪問である。マイナーな城跡の探訪では入念な下調べが欠かせない。車を止めるスペースはない場所も多いので、ほとんどはバイクでの訪問となる。今回の取材地は仙台市郊外であったが、道が狭いようなので、万全を期す意味でバイクを使った。道路左の林が目指す目的地である。これがターゲッ... 続きを読む

名取市指定文化財高舘城址を訪ねて

昨日、息子とともに名取市指定文化財高舘城址を訪ねた。動機は東街道を語るのに避けて通れないと考えたからである。これは高舘城より更に40メートルほど標高が高い熊野那智神社の展望台から眺めたアングルである。現在はこのように樹木が繁茂していて、地形がほとんどわからない。案内板がなければ見落としそうな感じがする。郷土史家の紫桃正隆氏は自著の『仙台領内古城・館』第4巻の中で「高館城は標高約160メートル、館山... 続きを読む

亘理町の東街道沿いは遺跡の宝庫

亘理町の東街道沿いは遺跡の宝庫である。本日は2月に撮影した画像をもとにそのうちの4箇所について紹介したい。Google3D立体画像をご覧頂きたい。吉田地区には僅か700メートルの間に4箇所にも渡って古代の遺跡が分布していることになる。この密度は尋常でない。南から順を追って紹介したい。ここはサニータウン亘理の西隣に位置する一の坂遺跡である。亘理町史上巻によると「中原西の緩傾斜面の畑地に存在する遺跡で主とし... 続きを読む

山元町の東街道に接する二つの館跡

本日は亘理郡山元町の二つの遺跡にスポットを当てたい。両者とも東街道沿いにあるが、年代が大きく食い違っており、新しいほうの遺跡(大平館跡)は古いほうの遺跡(舘ノ内遺跡)の一部を踏襲した可能性が高い。即ち、奈良・平安期においては小規模だった館が、その後に及んで拡幅されたのかも知れない。山元町の教育員会が敢えて二つの遺跡に分けた理由については定かでないが、何らかの根拠があるのかも知れない。Google3D立体... 続きを読む

仙台南部と山形を結ぶ旧道笹谷街道

本日は去る1月に探索した旧道笹谷道を紹介したい。仙台側の起点は現長町の広瀬橋のたもととなっている。正面が広瀬橋、その向こうは河原町となっている。現在は4車線同士の交差点で交通量も激しい。交差点の脇のほう(南西側)に立っているのが二つの道標である。下の地図は昭和50年前後と思われるが、往時の同じ場所のものである。黄色い線が笹谷街道、道標の位置は水色(ほぼ中央)である。右側が古戦場・鎧渕である。門前道... 続きを読む

往古へのロマン東街道をゆく(亘理編)

前書き そろそろ文芸誌「みちのく春秋」の投稿の締め切り日が迫ってきた。今回はこれに備えて『東街道をゆく』亘理編をブログに掲載することにした。去る2月15日(土)の足取りを改めて振り返ってみたい。 喫茶「遊」訪問 自分が定年する数年前のことである。宮城県南部の亘理町を訪れた際、一風変わったカフェ(喫茶)を見つけた。その名は喫茶「遊」である。「遊」の立地は素晴らしく、なだらかな阿武隈山地の中腹から... 続きを読む

日本武尊が勧進した亘理町の鹿島天足和気神社

去る2月15日に私は宮城県南部の亘理町を訪ね、東街道を偲ぶ旅を行ったが、本日は亘理町北部の逢隈地区に鎮座する鹿島天足和気神社を紹介したい。ご覧の通り鳥居の傍には日章旗が掲げられ、如何にも由緒正しい神社と言う雰囲気である。さほど段数のない石段の山道をゆっくりと進むと社殿が見えてくる。境内には早春の光が降り注ぎ、神々しさが漂っている。狛犬の下の石垣が崩れているようだが、或いは9年前の震災の被害を受けた... 続きを読む

東街道のルートを年代別に追ってみました

三連休も中日の二日目となったが、本日は令和初の天皇誕生日である。天皇陛下は還暦になられたが、本日はメディアのインタビューで「もう還暦ではなく、まだ還暦という思いでおります」と仰られた言葉が印象に残った。そう言えば、かのウインストン・チャーチルが65歳で首相の座に就き、益々頭脳明晰に至ったというが、それから時代が更に進み、平均寿命が延びた現代の60代はまだまだ若いのである。自分もこれにあやかり、気持... 続きを読む

ヤマトタケルが勧進した安福河伯神社

本日は日本尊名(ヤマトタケル)が勧進したとされる宮城県亘理町の安福河伯神社(あふくかはくじんじゃ)を紹介したい。ここは阿武隈川河畔の東街道と思しき道だが、ここで道が分かれている。真っすぐ進むと稲葉の渡し(田澤の渡し)で左に行くと安福河伯神社である。二百メートルほど西に進むとこのような鳥居が見えてくる。如何にも由緒のありそうな神社である。右側の建物は田沢活性化センターである。Google航空写真で位置を確... 続きを読む

陸奥国亘理郡官衙跡を訪ねて

私は去る2月15日に亘理町(一部山元町)を走る東街道を巡る史跡探訪を行ったが、その際に立ち寄った陸奥国亘理郡官衙跡を紹介したい。場所は常磐線逢隈駅の西側である。近年近接地で宅地開発が行われたようだが、国指定となった史跡は今でもちゃんと残っている。隣接する住宅地は2セクションで、こちらは北側の史跡に隣接するセクション(建物の古さから言って造成された時期は昭和期と推定)である。下り坂の正面が常磐線逢隈... 続きを読む

東街道山元町鷲足~大平地区を訪ねて

本日は昨日(2月15日)に訪れた山元町のアップルロードについて紹介したい。本来ならば東街道と言いたいのだが、東街道は平安期~鎌倉期にかけてできた道であり、その多くが朧なものとなっている。亘理郡の東街道の経路をおいかけた資料として「皇国地誌亘理郡付図」(皇国地誌亘理郡附図とも)というものがあるが、これとて明治初期の編纂ゆえ、参考程度とするべきである。図の中央やや左寄りに注目「鷲足」、「小平」、「大平... 続きを読む

亘理町の東街道を巡るバイク旅

二十四節気の雨水にあと四日と迫ったが、本日の宮城県南部はとても2月と思えない陽気だった。昨日には及ばないものの最高気温は仙台で14度まであがり、4月上旬並みの気温となった。私は思うところがあって早い時間にバイクに跨った。行く先は2015年春~2016年秋にかけて住んでいた宮城県南部の亘理町である。亘理町は太平洋に面していることもあり、気候が温暖で冬場は仙台とシャツ一枚違うとも言われる場所である。仙... 続きを読む

どう変わる?仙台の古戦場「鎧渕」界隈

本日は昨日約束した仙台の古戦場 鎧渕のことをお伝えしたい。ここは太白区根岸の国道286号線(6車線)の直角カーブである。四叉路の交差点の歩道にはこのような石柱が立っている。南北方向には根岸(広瀬川の河岸を由来とした地名と思われる)、東西方向に宮沢である。ほぼ正面に架かっている橋は宮沢橋である。宮沢橋右岸(西岸)を上流側から眺めてみた。橋の架け替えに伴う工事が行われていた。工事の説明版によると、(仮... 続きを読む

東街道の東ルートを歩いてみました

昨日の2月8日(土)、仙台市を通る東街道のうち東ルートを歩いてみた。なぜこのような命名に至ったのかの理由については記事を追って後ほど述べたい。ここは広瀬川に架かる宮沢橋の左岸(北岸)から東街道東ルート方面を見渡したアングルである。実はこの辺りは鎧渕(よろいぶち・鎧淵とも)と言って鎌倉時代に戦が行われた古戦場でもある。文治5年(1189年)8月12日に東街道を下った源頼朝軍(実際に大軍を率いたのは頼... 続きを読む

遂に粟野大膳重国の墓標が判明しました!

去る2月2日にどうしても見つけられなかった仙台藩士(元中世豪族)粟野大膳重国の墓標を本日ついに発見した。近世墓鑑定士の吉田幸弘様のFC2ブログhttp://samuraihimago.blog.fc2.com/を拝見し、この墓標のあるおおよその位置をGoogle航空写真で割り出したのである。とは言えGoogle航空写真は個人情報保護のために墓を表示させないようにしているので、位置は吉田様の撮られた写真に写っている背景の木立から推定した。幸いに... 続きを読む

粟野大膳重国の墓標のある宗禅寺

去る2月2日私は太白区長町~大年寺山にかけての界隈を訪ねた。主な目的は史跡の探訪である。この寺は宗禅寺と言って伊達に抗って没落した粟野大膳重国の墓標のある寺である。敢えて墓標と表現しているのは中に遺骨が入っているという確証がないためか?そのあたりの事情はわかりかねるが、位置から言って粟野氏の菩提寺と思われる。インターネットでは二つの画像が存在するようだが、去る2月2日に私は宗禅寺にある粟野大膳重国... 続きを読む

思いもかけない東街道との遭遇

昨日、太白区の国道286号線界隈を探索している間に東街道の標柱(ステンレス製)を発見した。東街道と言えば、過去の歴史探訪で亘理町、名取市、仙台市で何度か断片的に出遭ったものの、ピンポイント的にしか理解していなかったので、なぜこんなところが…という思いに駆られた。背後のコンクリート構造物は国道286号線の擁壁である。こちらは東街道と直行する大年寺の門前町である。今はすっかり住宅地と化してしまっている... 続きを読む

石巻を震撼させたビンセンス号入港事件

嘉永5年(1852年)吉田松陰が石巻を訪れた翌年の嘉永6年(1853年)にペリー率いる黒船が浦賀(神奈川県横須賀市)に入港し、日本を震撼させた。開国か攘夷かの決断に迫られた幕府老中の阿部正弘は各藩に意見を訪ねた。この時仙台藩主の伊達慶邦は断固開港を拒否し、場合によっては戦争も厭わずという強硬な意見を申し出ている。翌年のペリーの再来航で追い込まれた幕府は大砲など最新鋭の武器の調達を試みたり、大船製造... 続きを読む

歴史随筆「北目城を巡る笊川の戦い」

北目城跡の現在 仙台領古城書上などによると北目城は寛正年間(1461年~1466年)に粟野氏によって築かれ天正年間(1573年~1592年)まで粟野氏の居城で、その後慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで伊達政宗が白石城の上杉と戦うための拠点として使われたとされる。北目城を拠点とした粟野氏は他に、茂ヶ崎城や沖野城にも拠点を持ち、北は国分氏、南は伊達氏を境にして、戦国期には東西に細長い領地を得ていた... 続きを読む

【仮説】笊川の戦いは三回行われた

笊川の戦いに対しての研究も佳境に入ってきた。本日は本日調べ上げた成果を基に、笊川の戦いに関する仮説を立ててみた。尚、今回参考にさせて頂いた文献(飽くまでも本日までのもの、敬称略)を羅列する。順序は不同である。史実については、信憑性が定かでないと思われたものを割愛し、信用に値すると思われるものを選りすぐって採用した。①紫桃正隆著「みやぎの戦国時代 合戦と群雄」②八本松連合町内会、郡山地区連合町内会他「... 続きを読む

笊川の戦い その2

先月の9月26日、私は仙台市太白区郡山の北目地区と旧笊川地区を訪ねた。旧笊川は去る10月12日から13日にかけての台風襲来により氾濫に晒されたとニュースで知った。笊川の命名の由来については先日も触れたが、普段は堀のような水量でありながら、ひとたび大雨に見舞われる都度氾濫を繰り返す様子から来ていると言われる。笊川(座留川とも)の戦いが行われた戦国期に関しては、恐らく治水もままならず、一帯は荒れるがま... 続きを読む

戦国末期に行われた笊川の戦いとは?

はしがき歴史はマイナーなものほどはまる傾向にある。それは誰も踏み入れたことがない、もしくは踏み入れても足跡が殆ど見当たらないものに遭遇した際、自分が魁となることへの感動であり、自分が死ぬ前に果すべき使命とも考えている所以である。今回新たに取り組むことを決意したのは戦国時代末期に笊川(名取川の支流)で行われた「笊川の戦い」である。最初に執筆に当たって参考にさせて頂いた文献(飽くまでも本日までのもの、... 続きを読む

伊達に抗い続けた豪の者・粟野氏の顛末

前書き本日は休日を利用して先日沖野城跡で撮りそこなった土塁跡(二箇所)を撮影してきた。また資料により、沖野城に城を構えた粟野氏についても相当のことがわかってきたので、私なりの所見を述べたい。先ずは下図をご覧願いたい。仙台の南東部に五つの城が記されているが、ここで気をつけねばならないのは五つの城が同時に存在した時代はないということである。これは何を意味するか?と言うと室町~戦国期にかけて繁栄した粟野... 続きを読む

粟野氏の栄枯盛衰と沖野城

本日は中世豪族粟野氏と沖野城の関わりについて、昨日撮影した現地写真を掲載の上述べたい。先ずはこの地図をご覧頂きたい。データは今昔マップからの引用である。左が明治40年に測図した沖野館である。沖野館という呼び名から、この地に要害があったことが歴然とする。右は現在の地図に遺構の位置を落としたものである。(遺構の位置は「仙台市史 資料編7 城館」を参考にして私が描いた)曲がり角に注目、何の変哲もないL型... 続きを読む

沖野城跡に行ってきました!

盆休みも残り二日となった。明日は十連休最後の有終の美を飾ると言ったら大袈裟になるが、ラストツーとなった本日はそれを強く意識し、昨日図書館の「仙台市史 資料7 城館」で得た情報を基に沖野城跡を訪ねた。沖野城跡のある位置は若林区の霞目飛行場の南である。本日の行動を振り返ると、ストップ&ゴー、そしてUターンが連続するシチュエーションで、車での取材はとても覚束なかったことだろう。曲がりくねった細い旧道を走... 続きを読む

新たな古城巡りに導く文献との出遭い

本日は雨天の中、仙台市図書館(仙台メディアテーク)に足を運んだ。私の目に止まった文献は「仙台市史 資料編7 城館」である。この文献は残念ながら貸し出し禁止だが、コピーは可能である。私は次に巡りたい古城をピックアップして十数枚をコピーしてきた。「仙台市史 資料編7 城館」は仙台市教育委員会も絡んでいるので信頼の置ける文献と見たためである。この文献は新しい資料が多く、大いに期待を寄せている。今まで城郭... 続きを読む

明治に挑む西郷隆盛、人に生き人に死す

西郷隆盛と言えば私欲を捨てた人物として名高いが、自分が創った明治政府を敵に廻し逆賊の汚名を被ってしまった人物でもある。本日は明治政府設立後の西郷がどんな生涯を送ったのか?そして彼の生き様が後世に与えた影響について考えてみたい。参考にした資料は①2000年放映NHK「その時歴史が動いた 西郷隆盛明治に挑む~西南戦争ぼっ発の時~」②1993年放映日本テレビ「知ってるつもり?! 西郷隆盛」である。西郷と言... 続きを読む

伊達藩火薬製造跡地を訪ねて

本日の2019年7月15日(月)は祝日(海の日)であるが、私はバイクで仙台市青葉区貝ヶ森地区の伊達藩火薬製造跡地を訪ねた。バイクはすぐ傍の貝ヶ森公園の入口に止めさせて頂いた。突き当たり(今は住宅が建っている)が火薬製造跡地だが、藩政時代とは打って変わり、今ではすっかり住宅地で囲まれてしまっている。昭和初期の地図(今昔マップより引用)をご覧頂きたい。90年近く前は目立たない山の中だったことがわかる。... 続きを読む

明智光秀はなぜ織田信長を裏切ったのか?

先日本能寺の変について記事を掲載したが、本日は明智光秀のサイドから主君・織田信長を裏切った動機や経緯について探って行きたい。参考にしたデータはNHKその時歴史が動いた「敵は本能寺にあり~なぜ光秀は信長を裏切ったのか~」の番組である。本能寺に関して扱ったその時歴史が動いたの番組は他にもあるが、前回の「信長暗殺を命じた男 新説・本能寺の変 浮上した黒幕」とは別な番組であることをお伝えしたい。明智光秀(... 続きを読む

信長暗殺を命じた影の黒幕とは?

前回まで織田信長が臨んだ戦を記事にしてきたが、今回は彼の最期となった「本能寺の変」に焦点を当て、彼が往時の日本に何をもたらしたのかについて掘り下げてゆきたい。参考にした資料は前回同様、NHKの歴史番組「その時歴史が動いた」の「信長暗殺を命じた男 新説・本能寺の変 浮上した黒幕」である。 往時の信長は独断に走る傾向が強く、抵抗勢力も多かったが、彼は抗う者の殆どを退けるという強引な手法で次々と... 続きを読む

伊達安芸仙台屋敷を訪ねて

ブロ友様の銀輪様に伊達騒動に関わった伊達安芸宗重の仙台屋敷の位置をご教示頂いたので、早速行ってみることにした。場所は青葉区の西公園通りの西側でYMCAのプールのほぼ向かい側である。立札の位置がいまいちで後ろに駐輪場が見えているが、家格は伊達一門の第四席ゆえ、敷地は数千坪にも及ぶものと推察している。この肖像画がいつ描かれたのはわからないが、かなり精巧である。遠田郡涌谷の菩提寺に祀られている像を手掛か... 続きを読む

織田信長と斎藤道三の非情の絆とは?

天文22年(1553年)、美濃と尾張の国境に近い富田の聖徳寺で或る会見が行われようとしていた。会見に臨んだ二人は美濃の国を治める斎藤道三(60歳)と尾張の国を治める織田信長(20歳)である。道三は策略と陰謀で身内を次々と毒殺するなど、残念な手口で「美濃のマムシ」と言われ内外から恐れられた人物であった。これに対して信長は奇行などから「尾張の大うつけ」と呼ばれた人物である。柱にもたれかかり、わざと道三... 続きを読む

信長、姉川の戦で義弟と激突

今回は織田信長シリーズとして姉川の戦をメインにして話を進めて行きたい。参考にしたデータ(画像引用も含む)はNHKの歴史番組「その時歴史が動いた 肉を切らせて骨を断つ~織田信長・捨て身の復讐戦~」である。1560年代後半の京滋~越前地方の大名の勢力図をご覧頂きたい。百年近く続く越前の名門・朝倉氏は新興勢力の織田氏に対して、激しい対抗意識を持っていた。その朝倉氏は古くから浅井氏と同盟を結んでいたのである... 続きを読む

長篠の戦、戦国を変えた両雄の決断

織田信長が臨んだ戦いで「桶狭間の戦」とともに、双璧に位置するのが「長篠の戦」である。 但し、長篠の戦は織田軍独自での戦いではなく、徳川家康と連合を組んでの戦いであった。甲斐の大大名・武田軍に台頭する勢力を誇った織田信長であったが、東の駿河や三河の備えを固めるには徳川家康の存在が不可欠だったのである。両者の思惑(往時の家康にしてみれば、まだまだ小大名で武田と戦うだけの力がなかった)が一致しての連合だ... 続きを読む

織田信長が桶狭間の戦いで見せた情報戦略

戦国武将の中で織田信長は真っ先に情報戦略を実戦に取り入れた武将であった。本日は2000年にNHKで放映された「その時歴史が動いた 桶狭間の戦い 織田信長 逆転への情報戦略」の番組をもとに、信長の先見性を見て行きたい。桶狭間の戦いは永禄3年(1560年)5月19日(旧暦)に起きた戦いであるが、その後の大名の勢力を塗り替えるほどの極めて大きな戦いであった。天文20年(1551年)に信長が18歳で家督を継... 続きを読む

大正6年撮影・石巻祝田浜の仇討ち現場

本日は「ふるさとの想い出写真集 石巻 明治・大正・昭和」から幕末に仇討ちのあった祝田浜(現石巻市)の写真(大正5年撮影)を掲載したい。左に広がる内海は渡波の万石浦である。「きてみてけらいん! いしのまき」からの引用でもう一度この仇討ちを振り返ってみたい。越後新発田藩中小姓久米弥五兵衛が文化14年(1817年)、同藩の藩士宅で馬廻役滝沢休右衛門に殺害(滝沢休右衛門の藩金の不正な着服を久米弥五兵衛に知... 続きを読む

生麦事件と薩英戦争

本日は2006年にNHKで放映された「その時歴史が動いた」より、「イギリスから見た薩英戦争」について画像を交えながら振り返ってみたい。尚、これをブログに取り上げる動機となったのが、ブロ友の不あがり様の「生麦事件」への言及(不あがり様は事件の起きた場所である横浜市に在住)である。不あがり様には、改めて御礼を述べたい所存である。生麦事件の起きる3年前の安政6年(1859年)、幕府との通商条約批准の為、イ... 続きを読む

仙台青葉まつりの山鉾を二基紹介します

本日は出勤前に仙台青葉まつりの山鉾を数基撮影した。そのうちの二基を紹介したい。これは政宗公兜山鉾と言って山鉾の中では最大のものである。政宗公の首から上が乗っかっているような奇抜なデザインに注目(笑)この仕掛けは8トンもあり234人で引くようだ。愛姫は伊達政宗の正室だが、三春(福島県中通り地方を統治した大名・田村清顕の娘)の愛姫が仙台に嫁いだのは12歳の時で、山鉾に乗る女の子は何と、小学6年生から一... 続きを読む

国分氏家臣の城・仙台市郷六城跡を訪ねて

本日は去る4月14日(日)に訪れた仙台市西部の郷六城を紹介したい。位置は仙台西道路西側トンネル出口から北西部に当たる地区である。目と鼻の先にある郷六御殿跡(広瀬川右岸)からはバイクで数十秒である。東側より郷六城跡を望んでみた。郷土史家の紫桃正隆氏の訪れた約50年前とは異なり、現在の周辺はすっかり住宅地と化している。郷土史家・紫桃正隆氏著「仙台領内古城・館 第三巻」579ページより引用したモノクロ写真を... 続きを読む
[タグ] 郷六城

名君伊達政宗の遺産・四ツ谷用水

本日は去る4月14日に訪問した仙台市青葉区の四ツ谷用水取水口について掲載したい。四ツ谷用水取水口の位置は葛岡霊園の南側登り口より南西に100メートルほど行ったところにある。※四ツ谷用水仙台藩祖・伊達政宗公の遺産とされる仙台市に存在する用水路で、四ツ谷堰ともいう。江戸時代に開削されたもので、本流と支流が仙台城の城下町をくまなく流れ、 生活用水や灌漑用水、排水に用いられた。近代以降、支流は暗渠化されたり... 続きを読む

広瀬川河畔に造られた堅城・葛岡城

去る4月14日に私が訪れたのは広瀬川左岸(北側)の青葉区郷六地区の「葛岡城」(くずおかじょう)である。紫桃正隆氏著「仙台領内古城・館 第三巻」を良く読んで下調べをしていった為、葛岡城の標柱のある場所を見つけるのにさほど時間は掛からなかった。今は亡き郷土史家・紫桃正隆氏(1921~2008)の解説によると、右側の民家は館のあった一部としている。現在は全てが私有地という感じである。紫桃氏によると民家の... 続きを読む

石巻千石船の会・総会への出席

本日私は朝の早い時間に郷里石巻に向かった。門脇の菩提寺に行き、墓参りを済ませてから生家のあった横町(現千石町)界隈に足を運んだ。ここで写真をかなり撮影したが、本日の記事の趣旨とは異なるので、また別な機会に紹介したい。令和元年の石巻千石船の会総会開催まで、多少時間があったので日和山に登って桜を愉しむことにした。日和山の民家の庭先で見かけた満開の桜は昨今の石巻の復興を見てどう思っているのだろうか?ふと... 続きを読む
[タグ] 石巻千石船の会

サン・ファン号は奴隷を運んだ

今日は久しぶりにサン・ファン・バウティスタ号(伊達政宗が海外に派遣した仙台藩士支倉常長を乗せた船)の話題である。サン・ファン・バウティスタ号は500トンにも及ぶガレオン船(戦艦)である。支倉はこの船(画像は石巻市サン・ファン館に展示されているレプリカ)で太平洋を横断し、メキシコに渡った。下図で太平洋におけるおおまかな航路を確認して頂きたい。サン・ファン・バウティスタ号は太平洋を二往復している。但し... 続きを読む

遠見塚古墳の探訪

本日ゴルフ練習の帰りに、息子と立ち寄ったのは仙台市若林区の遠見塚古墳である。遠見塚古墳は国指定の史跡となっている。指定は昭和43年なので今から50年前のことになる。以下:仙台市教育委員会・仙台市の指定・登録文化財のサイトより引用遠見塚古墳は、仙台平野のほぼ中央部広瀬川北岸に発達した標高約10mの自然堤防上に位置している。仙台市内では最大規模の前方後円墳であり、宮城県内においても雷神山古墳に次ぐ大型古... 続きを読む

伊達政宗の秋にちなんだ詩

本日は仙台市図書館で国宝大崎八幡宮仙台・江戸学叢書『伊達政宗の漢詩』を借りてきた。政宗は文武に優れた面を持ち、生涯に実に4千通という当時では非常に多い手紙を書いた(祐筆に書かせたものも含む)武将として知られるが、これには深い教養があったという。以前彼の代表作である「馬上少年過ぐ」は本ブログで何度か紹介したが、本日は、深まり行く秋にちなんで伊達政宗の文化人としての側面を紹介したい。先ずは一作目は題不... 続きを読む

織田信長の鉄船に見るブログ防衛術

「如何なる攻撃も跳ね返す巨大な鉄の船を建造せよ!」大阪湾での水軍戦に備えて織田信長が唱えた言葉は、九鬼嘉隆(織田水軍の大将)が耳を疑う発想(往時の造船技術では鉄の船が水に浮かぶとは到底考えられなかった)であった。私はここに、如何なる手段を用いても敵を屈服させるという信長らしさを感じるのである。天正6年(1576年)に第二次木津川口の戦いで戦国最強の村上水軍を撃破した時に用いた船は全長32メートル(... 続きを読む

荒浜武者家の功績

私が宮城県南部の沿岸である亘理町の荒浜地区を訪れたのは8月2日のことだった。津波襲来の地という石碑が痛々しい印象を与えるが、実はここには藩政時代に御城米(年貢を納める為に収穫された米)を蓄えた蔵のあった場所である。蔵があったのは亘理町立荒浜小学校の体育館の南側の辺りである。実は阿武隈川の水運に深く関わっていたのが城米浦役人(一時は舟肝煎り)を代々務めた武者家である。本日は武者家のルーツと同家が果た... 続きを読む

名取の豪農・洞口家住宅

本日は一昨日(8月2日)に訪問した名取市の洞口家住宅を改めて紹介したい。9年前に撮影した写真では表門(長屋門)に足場が掛かっていた。今回は非常に綺麗な写真が撮れたと思っている。屋敷林の影に位置するのが主屋(おもや)である。自分は今回ほど日本の古民家を美しいと感じたことはない。寄棟造りの茅葺屋根の形成する稜線と鋭角的な軒先の角度がこうした印象を抱かせる大きな要因と受け止めている。屋敷林(イグネとも言... 続きを読む
[タグ] 洞口家住宅