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歴史随筆「北目城を巡る笊川の戦い」

北目城跡の現在 仙台領古城書上などによると北目城は寛正年間(1461年~1466年)に粟野氏によって築かれ天正年間(1573年~1592年)まで粟野氏の居城で、その後慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで伊達政宗が白石城の上杉と戦うための拠点として使われたとされる。北目城を拠点とした粟野氏は他に、茂ヶ崎城や沖野城にも拠点を持ち、北は国分氏、南は伊達氏を境にして、戦国期には東西に細長い領地を得ていた... 続きを読む

【仮説】笊川の戦いは三回行われた

笊川の戦いに対しての研究も佳境に入ってきた。本日は本日調べ上げた成果を基に、笊川の戦いに関する仮説を立ててみた。尚、今回参考にさせて頂いた文献(飽くまでも本日までのもの、敬称略)を羅列する。順序は不同である。史実については、信憑性が定かでないと思われたものを割愛し、信用に値すると思われるものを選りすぐって採用した。①紫桃正隆著「みやぎの戦国時代 合戦と群雄」②八本松連合町内会、郡山地区連合町内会他「... 続きを読む

笊川の戦い その2

先月の9月26日、私は仙台市太白区郡山の北目地区と旧笊川地区を訪ねた。旧笊川は去る10月12日から13日にかけての台風襲来により氾濫に晒されたとニュースで知った。笊川の命名の由来については先日も触れたが、普段は堀のような水量でありながら、ひとたび大雨に見舞われる都度氾濫を繰り返す様子から来ていると言われる。笊川(座留川とも)の戦いが行われた戦国期に関しては、恐らく治水もままならず、一帯は荒れるがま... 続きを読む

戦国末期に行われた笊川の戦いとは?

はしがき歴史はマイナーなものほどはまる傾向にある。それは誰も踏み入れたことがない、もしくは踏み入れても足跡が殆ど見当たらないものに遭遇した際、自分が魁となることへの感動であり、自分が死ぬ前に果すべき使命とも考えている所以である。今回新たに取り組むことを決意したのは戦国時代末期に笊川(名取川の支流)で行われた「笊川の戦い」である。最初に執筆に当たって参考にさせて頂いた文献(飽くまでも本日までのもの、... 続きを読む

伊達に抗い続けた豪の者・粟野氏の顛末

前書き本日は休日を利用して先日沖野城跡で撮りそこなった土塁跡(二箇所)を撮影してきた。また資料により、沖野城に城を構えた粟野氏についても相当のことがわかってきたので、私なりの所見を述べたい。先ずは下図をご覧願いたい。仙台の南東部に五つの城が記されているが、ここで気をつけねばならないのは五つの城が同時に存在した時代はないということである。これは何を意味するか?と言うと室町~戦国期にかけて繁栄した粟野... 続きを読む

粟野氏の栄枯盛衰と沖野城

本日は中世豪族粟野氏と沖野城の関わりについて、昨日撮影した現地写真を掲載の上述べたい。先ずはこの地図をご覧頂きたい。データは今昔マップからの引用である。左が明治40年に測図した沖野館である。沖野館という呼び名から、この地に要害があったことが歴然とする。右は現在の地図に遺構の位置を落としたものである。(遺構の位置は「仙台市史 資料編7 城館」を参考にして私が描いた)曲がり角に注目、何の変哲もないL型... 続きを読む

沖野城跡に行ってきました!

盆休みも残り二日となった。明日は十連休最後の有終の美を飾ると言ったら大袈裟になるが、ラストツーとなった本日はそれを強く意識し、昨日図書館の「仙台市史 資料7 城館」で得た情報を基に沖野城跡を訪ねた。沖野城跡のある位置は若林区の霞目飛行場の南である。本日の行動を振り返ると、ストップ&ゴー、そしてUターンが連続するシチュエーションで、車での取材はとても覚束なかったことだろう。曲がりくねった細い旧道を走... 続きを読む

新たな古城巡りに導く文献との出遭い

本日は雨天の中、仙台市図書館(仙台メディアテーク)に足を運んだ。私の目に止まった文献は「仙台市史 資料編7 城館」である。この文献は残念ながら貸し出し禁止だが、コピーは可能である。私は次に巡りたい古城をピックアップして十数枚をコピーしてきた。「仙台市史 資料編7 城館」は仙台市教育委員会も絡んでいるので信頼の置ける文献と見たためである。この文献は新しい資料が多く、大いに期待を寄せている。今まで城郭... 続きを読む

明治に挑む西郷隆盛、人に生き人に死す

西郷隆盛と言えば私欲を捨てた人物として名高いが、自分が創った明治政府を敵に廻し逆賊の汚名を被ってしまった人物でもある。本日は明治政府設立後の西郷がどんな生涯を送ったのか?そして彼の生き様が後世に与えた影響について考えてみたい。参考にした資料は①2000年放映NHK「その時歴史が動いた 西郷隆盛明治に挑む~西南戦争ぼっ発の時~」②1993年放映日本テレビ「知ってるつもり?! 西郷隆盛」である。西郷と言... 続きを読む
[タグ] 西郷隆盛

伊達藩火薬製造跡地を訪ねて

本日の2019年7月15日(月)は祝日(海の日)であるが、私はバイクで仙台市青葉区貝ヶ森地区の伊達藩火薬製造跡地を訪ねた。バイクはすぐ傍の貝ヶ森公園の入口に止めさせて頂いた。突き当たり(今は住宅が建っている)が火薬製造跡地だが、藩政時代とは打って変わり、今ではすっかり住宅地で囲まれてしまっている。昭和初期の地図(今昔マップより引用)をご覧頂きたい。90年近く前は目立たない山の中だったことがわかる。... 続きを読む

明智光秀はなぜ織田信長を裏切ったのか?

先日本能寺の変について記事を掲載したが、本日は明智光秀のサイドから主君・織田信長を裏切った動機や経緯について探って行きたい。参考にしたデータはNHKその時歴史が動いた「敵は本能寺にあり~なぜ光秀は信長を裏切ったのか~」の番組である。本能寺に関して扱ったその時歴史が動いたの番組は他にもあるが、前回の「信長暗殺を命じた男 新説・本能寺の変 浮上した黒幕」とは別な番組であることをお伝えしたい。明智光秀(... 続きを読む

信長暗殺を命じた影の黒幕とは?

前回まで織田信長が臨んだ戦を記事にしてきたが、今回は彼の最期となった「本能寺の変」に焦点を当て、彼が往時の日本に何をもたらしたのかについて掘り下げてゆきたい。参考にした資料は前回同様、NHKの歴史番組「その時歴史が動いた」の「信長暗殺を命じた男 新説・本能寺の変 浮上した黒幕」である。 往時の信長は独断に走る傾向が強く、抵抗勢力も多かったが、彼は抗う者の殆どを退けるという強引な手法で次々と... 続きを読む

伊達安芸仙台屋敷を訪ねて

ブロ友様の銀輪様に伊達騒動に関わった伊達安芸宗重の仙台屋敷の位置をご教示頂いたので、早速行ってみることにした。場所は青葉区の西公園通りの西側でYMCAのプールのほぼ向かい側である。立札の位置がいまいちで後ろに駐輪場が見えているが、家格は伊達一門の第四席ゆえ、敷地は数千坪にも及ぶものと推察している。この肖像画がいつ描かれたのはわからないが、かなり精巧である。遠田郡涌谷の菩提寺に祀られている像を手掛か... 続きを読む

織田信長と斎藤道三の非情の絆とは?

天文22年(1553年)、美濃と尾張の国境に近い富田の聖徳寺で或る会見が行われようとしていた。会見に臨んだ二人は美濃の国を治める斎藤道三(60歳)と尾張の国を治める織田信長(20歳)である。道三は策略と陰謀で身内を次々と毒殺するなど、残念な手口で「美濃のマムシ」と言われ内外から恐れられた人物であった。これに対して信長は奇行などから「尾張の大うつけ」と呼ばれた人物である。柱にもたれかかり、わざと道三... 続きを読む

信長、姉川の戦で義弟と激突

今回は織田信長シリーズとして姉川の戦をメインにして話を進めて行きたい。参考にしたデータ(画像引用も含む)はNHKの歴史番組「その時歴史が動いた 肉を切らせて骨を断つ~織田信長・捨て身の復讐戦~」である。1560年代後半の京滋~越前地方の大名の勢力図をご覧頂きたい。百年近く続く越前の名門・朝倉氏は新興勢力の織田氏に対して、激しい対抗意識を持っていた。その朝倉氏は古くから浅井氏と同盟を結んでいたのである... 続きを読む

長篠の戦、戦国を変えた両雄の決断

織田信長が臨んだ戦いで「桶狭間の戦」とともに、双璧に位置するのが「長篠の戦」である。 但し、長篠の戦は織田軍独自での戦いではなく、徳川家康と連合を組んでの戦いであった。甲斐の大大名・武田軍に台頭する勢力を誇った織田信長であったが、東の駿河や三河の備えを固めるには徳川家康の存在が不可欠だったのである。両者の思惑(往時の家康にしてみれば、まだまだ小大名で武田と戦うだけの力がなかった)が一致しての連合だ... 続きを読む

織田信長が桶狭間の戦いで見せた情報戦略

戦国武将の中で織田信長は真っ先に情報戦略を実戦に取り入れた武将であった。本日は2000年にNHKで放映された「その時歴史が動いた 桶狭間の戦い 織田信長 逆転への情報戦略」の番組をもとに、信長の先見性を見て行きたい。桶狭間の戦いは永禄3年(1560年)5月19日(旧暦)に起きた戦いであるが、その後の大名の勢力を塗り替えるほどの極めて大きな戦いであった。天文20年(1551年)に信長が18歳で家督を継... 続きを読む

大正6年撮影・石巻祝田浜の仇討ち現場

本日は「ふるさとの想い出写真集 石巻 明治・大正・昭和」から幕末に仇討ちのあった祝田浜(現石巻市)の写真(大正5年撮影)を掲載したい。左に広がる内海は渡波の万石浦である。「きてみてけらいん! いしのまき」からの引用でもう一度この仇討ちを振り返ってみたい。越後新発田藩中小姓久米弥五兵衛が文化14年(1817年)、同藩の藩士宅で馬廻役滝沢休右衛門に殺害(滝沢休右衛門の藩金の不正な着服を久米弥五兵衛に知... 続きを読む

生麦事件と薩英戦争

本日は2006年にNHKで放映された「その時歴史が動いた」より、「イギリスから見た薩英戦争」について画像を交えながら振り返ってみたい。尚、これをブログに取り上げる動機となったのが、ブロ友の不あがり様の「生麦事件」への言及(不あがり様は事件の起きた場所である横浜市に在住)である。不あがり様には、改めて御礼を述べたい所存である。生麦事件の起きる3年前の安政6年(1859年)、幕府との通商条約批准の為、イ... 続きを読む

仙台青葉まつりの山鉾を二基紹介します

本日は出勤前に仙台青葉まつりの山鉾を数基撮影した。そのうちの二基を紹介したい。これは政宗公兜山鉾と言って山鉾の中では最大のものである。政宗公の首から上が乗っかっているような奇抜なデザインに注目(笑)この仕掛けは8トンもあり234人で引くようだ。愛姫は伊達政宗の正室だが、三春(福島県中通り地方を統治した大名・田村清顕の娘)の愛姫が仙台に嫁いだのは12歳の時で、山鉾に乗る女の子は何と、小学6年生から一... 続きを読む

国分氏家臣の城・仙台市郷六城跡を訪ねて

本日は去る4月14日(日)に訪れた仙台市西部の郷六城を紹介したい。位置は仙台西道路西側トンネル出口から北西部に当たる地区である。目と鼻の先にある郷六御殿跡(広瀬川右岸)からはバイクで数十秒である。東側より郷六城跡を望んでみた。郷土史家の紫桃正隆氏の訪れた約50年前とは異なり、現在の周辺はすっかり住宅地と化している。郷土史家・紫桃正隆氏著「仙台領内古城・館 第三巻」579ページより引用したモノクロ写真を... 続きを読む
[タグ] 郷六城

名君伊達政宗の遺産・四ツ谷用水

本日は去る4月14日に訪問した仙台市青葉区の四ツ谷用水取水口について掲載したい。四ツ谷用水取水口の位置は葛岡霊園の南側登り口より南西に100メートルほど行ったところにある。※四ツ谷用水仙台藩祖・伊達政宗公の遺産とされる仙台市に存在する用水路で、四ツ谷堰ともいう。江戸時代に開削されたもので、本流と支流が仙台城の城下町をくまなく流れ、 生活用水や灌漑用水、排水に用いられた。近代以降、支流は暗渠化されたり... 続きを読む

広瀬川河畔に造られた堅城・葛岡城

去る4月14日に私が訪れたのは広瀬川左岸(北側)の青葉区郷六地区の「葛岡城」(くずおかじょう)である。紫桃正隆氏著「仙台領内古城・館 第三巻」を良く読んで下調べをしていった為、葛岡城の標柱のある場所を見つけるのにさほど時間は掛からなかった。今は亡き郷土史家・紫桃正隆氏(1921~2008)の解説によると、右側の民家は館のあった一部としている。現在は全てが私有地という感じである。紫桃氏によると民家の... 続きを読む

石巻千石船の会・総会への出席

本日私は朝の早い時間に郷里石巻に向かった。門脇の菩提寺に行き、墓参りを済ませてから生家のあった横町(現千石町)界隈に足を運んだ。ここで写真をかなり撮影したが、本日の記事の趣旨とは異なるので、また別な機会に紹介したい。令和元年の石巻千石船の会総会開催まで、多少時間があったので日和山に登って桜を愉しむことにした。日和山の民家の庭先で見かけた満開の桜は昨今の石巻の復興を見てどう思っているのだろうか?ふと... 続きを読む
[タグ] 石巻千石船の会

サン・ファン号は奴隷を運んだ

今日は久しぶりにサン・ファン・バウティスタ号(伊達政宗が海外に派遣した仙台藩士支倉常長を乗せた船)の話題である。サン・ファン・バウティスタ号は500トンにも及ぶガレオン船(戦艦)である。支倉はこの船(画像は石巻市サン・ファン館に展示されているレプリカ)で太平洋を横断し、メキシコに渡った。下図で太平洋におけるおおまかな航路を確認して頂きたい。サン・ファン・バウティスタ号は太平洋を二往復している。但し... 続きを読む

遠見塚古墳の探訪

本日ゴルフ練習の帰りに、息子と立ち寄ったのは仙台市若林区の遠見塚古墳である。遠見塚古墳は国指定の史跡となっている。指定は昭和43年なので今から50年前のことになる。以下:仙台市教育委員会・仙台市の指定・登録文化財のサイトより引用遠見塚古墳は、仙台平野のほぼ中央部広瀬川北岸に発達した標高約10mの自然堤防上に位置している。仙台市内では最大規模の前方後円墳であり、宮城県内においても雷神山古墳に次ぐ大型古... 続きを読む

伊達政宗の秋にちなんだ詩

本日は仙台市図書館で国宝大崎八幡宮仙台・江戸学叢書『伊達政宗の漢詩』を借りてきた。政宗は文武に優れた面を持ち、生涯に実に4千通という当時では非常に多い手紙を書いた(祐筆に書かせたものも含む)武将として知られるが、これには深い教養があったという。以前彼の代表作である「馬上少年過ぐ」は本ブログで何度か紹介したが、本日は、深まり行く秋にちなんで伊達政宗の文化人としての側面を紹介したい。先ずは一作目は題不... 続きを読む

織田信長の鉄船に見るブログ防衛術

「如何なる攻撃も跳ね返す巨大な鉄の船を建造せよ!」大阪湾での水軍戦に備えて織田信長が唱えた言葉は、九鬼嘉隆(織田水軍の大将)が耳を疑う発想(往時の造船技術では鉄の船が水に浮かぶとは到底考えられなかった)であった。私はここに、如何なる手段を用いても敵を屈服させるという信長らしさを感じるのである。天正6年(1576年)に第二次木津川口の戦いで戦国最強の村上水軍を撃破した時に用いた船は全長32メートル(... 続きを読む

荒浜武者家の功績

私が宮城県南部の沿岸である亘理町の荒浜地区を訪れたのは8月2日のことだった。津波襲来の地という石碑が痛々しい印象を与えるが、実はここには藩政時代に御城米(年貢を納める為に収穫された米)を蓄えた蔵のあった場所である。蔵があったのは亘理町立荒浜小学校の体育館の南側の辺りである。実は阿武隈川の水運に深く関わっていたのが城米浦役人(一時は舟肝煎り)を代々務めた武者家である。本日は武者家のルーツと同家が果た... 続きを読む

亘理十文字氏の家系図

去る5月12日、宮城県北部の涌谷町の城山公園資料館(擬似天守閣内)に行った際、偶然にも亘理十文字氏の末裔の人物の展示を発見した。これを基に様々なサイトを調べ、十文字一族のことがかなりわかってきた。本日は自分なりにCADで家系図を作ってみた。十文字氏はインターネットでもマイナーなので、恐らく初公開と捉えている。また、掲載した十文字栗軒の肖像写真もインターネット初投稿と察している。※約2倍に拡大可能亘... 続きを読む

東廻り航路で果たした武者家の功績

亘理町に住んでいた2016年1月26日、私は町内バス(さざんか号)に乗って町内東部の荒浜地区を訪ねたことがあった。荒浜には武者家という旧家が存在する。武者家は藩政時代に代々、城米浦役人(福島内陸部でとれた米を江戸の幕府に送る物流を担当した役人)や舟肝入を務めた家である。本日は武者家を中心に話を進めて行きたい。尚、記事を書く上で参考にした著物は井上拓巳氏著:『荒浜湊のにぎわい 東廻り海運と阿武隈川舟... 続きを読む

東北は賊軍に非ず!木村紀夫氏

昨日、私は或る講演に参加した。今年で戊辰戦争から150年が経つ。各地で記念行事が行われるが、負けて賊軍呼ばわりされた我が仙台藩は、こうした意識が薄く自分としては物足りないものを感じていた。そんな折にこの講演を機に或る先人郷土史家と会う機会を得た。木村紀夫氏(1940年生まれ)である。木村氏は仙台に生まれ、仙台大空襲で矢本町(現東松島市)に疎開し、石巻の学校を卒業後、或る生命保険会社に勤務され、65... 続きを読む

西郷隆盛が現代に遺したもの

 100分de名著『 南洲翁遺訓 第1回 揺らぐ時代 』 NHKテキスト100分de名著(監修:先崎彰容氏・日本大学危機管理学部教授)で「南州翁遺訓」を読んだ。読んだだけでは物足らないのでYOUTUBE動画(25分×4編)を何度も繰り返して見た。この番組は今年の一月から始まった大河ドラマ「西郷どん」放映に伴い企画されたものと察している。司馬遼太郎は「翔ぶが如く」の中で西郷隆盛のことを「島津斉彬の弟子でありながら維新後の... 続きを読む

伊達政宗のライバル・蒲生氏郷

去る5月4日に私は大崎・葛西一揆で大きな騒乱があった佐沼城を訪れた。本日はその背景を如実に示す動画を紹介したい。87年放映「独眼流政宗第26話」である。この番組には伊達政宗のライバルである蒲生氏郷が登場する。以下朝日日本歴史人物事典より引用蒲生氏郷(1556~1595)六角氏の重臣で近江国蒲生郡甘野城主蒲生賢秀の子。幼名鶴千代、忠三郎賦秀。洗礼名レオン(天正13年洗礼)。蒲生氏は鎮守府将軍藤原秀郷... 続きを読む

伊達政宗が口封じの為に行った一揆制圧

本日は昨日行った史跡佐沼城であった血なまぐさい史実についてお伝えしたい。取材の為に準備したのは、郷土史研究の大家である紫桃正隆氏の「みやぎの戦国時代 合戦と群雄」、「資料 仙台領内古城・館 第二巻」である。私は数日前からこれらの書物を読み、この大筋を押さえてこの日に臨んだ。一揆の大筋と伊達政宗のとった行動は①葛西、大崎は小田原攻めに参加できず、秀吉より改易(土地の没収:事実上の滅亡)②新たな領土(宮... 続きを読む

伊達政宗による葛西残党狩り

伊達政宗による葛西家臣残党狩り歴史は勝者によって塗り替えられてきた。伊達政宗公と言えば、我が宮城県や岩手県の一部では圧倒的な存在で、今でも英雄扱いされている。だが、そんな郷里の英雄も戦国の世を渡るためには謀(はかりごと)をしてきたのである。その史実に迫ったのが郷土史家・故紫桃正隆氏著の「仙台領の戦国誌」(葛西一揆中心編)である。以下「仙台領の戦国誌」と公益社団法人みらいサポート石巻「続・まちあるき... 続きを読む

歴史随筆「豪族十文字氏の栄枯盛衰」

前書き本記事は過去二回のブログ投稿を経て推敲を重ねた記事であることをご了承願いたい。同時に本記事は自分が寄稿している季刊誌「歴史さんぽ」への原稿とすることを最初にお断りしておきたい。歴史随筆「豪族十文字氏の栄枯盛衰」私が中世豪族・十文字氏の館跡を訪ねたのは2015年4月末のことだった。館があったとされるのは宮城県南部の亘理町の逢隈十文字地区の由来だが、道が十字に交わることが由来と言われている。豪族... 続きを読む

中世豪族・十文字氏の末裔が判明

私が中世豪族・十文字氏の館跡を訪ねたのは2015年4月28日のことだった。館があったとされるのは宮城県南部の亘理町の逢隈十文字地区である。私はこの年の4月から相馬転勤となり、亘理町にアパートを借り単身赴任生活を始めたばかりの頃であった。実は、4月28日にブログにアップしてから一年以上経た昨年の1月、近くに住まわれるさくらパパ様からコメントを頂いた。なんと滅ぼされたとされる十文字氏は宮城県北部の遠田... 続きを読む

片倉小十郎墓所を訪ねて

1987年の大河ドラマ「独眼流政宗」は今でもYOU TUBEで見ることが出来る。数年前、かつて伊達と相馬が伊具の丸森(現宮城県南部)で争った際、伊達輝宗(伊達政宗の父)が陣を張った平城跡を訪ねたことがあった。屋敷林で囲まれた城跡には民家が建っているが、その住人である元小学校の校長が「独眼流政宗は傑作であり、放送後30年を経た今でも、宮城県人にとっては、大きな存在感を放っている」と語られていた。これは私も全... 続きを読む

奥州街道斎川宿を訪ねて

昨日の12月9日(土曜)、私は福島県との県境に近い旧奥州街道の宿場町を訪ねた。写真からはややわかり難いが道路にはゆるやかな勾配がついている。昔はこの旧道が国道4号線であったが、既にバイパス化された新国道4号が西側を平行に走っている。今はすっかり交通量が激減した旧道に、私は昔の宿場町の面影を重ねた。宿場町の名称は斎川宿である。この辺りは南の外れにあたる部分で家屋もまばらになっている。では、江戸時代の... 続きを読む

東北では珍しい大型の前方後方墳(南相馬)

本日は一年二箇月前の2016年9月に訪れた福島県南相馬市の桜井古墳を紹介したい。矢印の赤●が桜井古墳の位置である。住所:福島県南相馬市上渋佐字原畑66-1外桜井古墳は国指定史跡になっている。桜井古墳古墳の規模は全長74・5メートル、高さ6・8メートル。新田川南側に立地する東北地方でも有数の墳丘規模を誇る大型の前方後方墳。福島県浜通りを見渡しても、桜井古墳の大きさを越える古墳は、いわき市玉山1号墳(前方後... 続きを読む

伊達政宗生誕450年記念特別展

”仙台浪漫”なる言葉がある。皆さんはこの言葉に何を感ずるだろう。現在の仙台は多くの偉大な先人たちが残した歴史と伝統が深く息づき、昨今は東北の中心都市としての一面以外に歴史と文化薫る学芸都市としての面影さえ醸し出している。従ってその面影に浪漫を感ずるのはごく自然な成り行きとも言えるのことなのではないだろうか?今の宮城県(仙台圏)の骨格が出来たのは仙台に藩制が布かれた416年前の1601年、そしてこの街... 続きを読む

伊達政宗の男気が結晶した松島瑞巌寺

独眼竜政宗「独眼竜政宗」はあくまで山岡荘八の創作であるが、大筋で史実に近いものがある。大筋と言ったのは近年に見つかった新しい資料の研究により、伊達政宗が実弟を殺したというこれまでの定説が変わりつつあるからだ。元仙台市博物館館長の佐藤憲一氏の研究で、殺したというのは偽装工作だった可能性が強くなってきたのである。(政宗の実弟小次郎は真言宗金色山吉祥院大悲願寺に向かい入れられ、住職となったということが、... 続きを読む

仙台藩を百万石超にした二人のカワムラとは?

仙台藩の石高は幕末まで62万石とされたが、江戸時代中期の実質的な石高は100万石を超えた。本日はその立役者となった二人のカワムラという人物にスポットを当てたい。最近、私は仙台市図書館から借りた一冊の本を読んでいる。元海上自衛官である長内國俊氏が書いた「河村瑞賢」という伝記である。本書は非常に内容の細かい本なのでYOU TUBEで概要をご覧願いたい。河村瑞賢 東廻り航路を拓く但し、宮城県には河村瑞賢よりも、... 続きを読む

石巻千石船の会への初出席

石巻千石船の会への初出席本日私が電車で向かったのは郷里・石巻である。眼下に見えるのは門脇地区である。6年前の震災で壊滅的な被害を受けた門脇地区では、盛り土が進み新たな舗装道路も開通し、鉄筋コンクリート造のアパート(門脇東復興住宅)も建ってきた。目的は石巻市の郷土研究サークル・石巻千石船の会への初出席である。思い起こせば今年の2月1日、ルーツ調べのため、石巻市図書館を訪ねたところ、偶然石巻千石船の会... 続きを読む
[タグ] 石巻千石船の会

東北最大の古墳へ六年半ふりの訪問

東北最大の前方後円墳へ六年半ふりの訪問昨日、私は6年半ぶりに名取市(仙台市の南に隣接する市)の雷神山古墳に向かった。※六年半前の記事東北最大の前方後円墳探検その1古墳の名は雷神山古墳である。雷神山古墳は、宮城県名取市植松にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。 東北地方では最大の規模で、4世紀末から5世紀前半の築造と推定される。仙台平野一帯を支配した広域首長の墓とされる。Google航空写真... 続きを読む

仙台藩士・古内志摩墓所を訪ねて

1970NHK大河ドラマ樅ノ木は残った昨日、私は仙台市泉区古内にある慈眼寺を訪ねた。目的は寛文事件(伊達騒動)で重要な役割を演じた仙台藩士・古内志摩義如の墓所を訪ねることである。旧来までは仙台藩重臣の伊達安芸宗重が江戸幕府大老酒井雅楽頭忠清邸で斬殺された際、仙台藩家老・原田甲斐の乱心が原因とされてきたが、山本周五郎の小説「樅ノ木は残った」では、幕府の陰謀(大老酒井雅楽頭忠清と仙台藩をのっとろうとし... 続きを読む

歴史エッセイ「伊達政宗公生誕450周年を迎えて」

2007年放送NHKその時歴史が動いた「天下に旗をあげよ 伊達政宗ヨーロッパに懸けた夢2/4」リンク動画についてこの動画はわずか13分ですが、伊達政宗公が大船を造ってまで海外に使節団を派遣した理由がよくわかります。興味のあるかたはご覧になってください。※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※歴史エッセイ「伊達政宗公生誕450周年を迎えて」仙台城を訪ねたのは三年ぶりくらいだろうか。仕事で仙台を離れて他方に移り住み再... 続きを読む

仙台城の探訪その1

仙台城の探訪その1本日の午後私は地下鉄東西線に乗って、或る目的地に向かった。私が降りたのは国際センター駅である。ここからは仙台国際センターの他に仙台城、仙台市博物館、宮城県美術館にアクセスするのに便利である。仙台に観光目当てで来るかたには是非お見知りおき願いたい駅である。駅の斜め向かいにあるのが扇坂である。藩政時代、藩主の出入りは大手門からであったが、その他の家臣(仙台藩士)はこの扇坂から城に出入... 続きを読む

7ヶ月振りの歴史講演会出席

7ヶ月振りの歴史講演会出席創作に携わる者は常に知識に対して貪欲でなければならない。そして知識を得ようとする過程で自ずと人脈が出来上がる。こうして「知の回廊」が広がって行くことに至福を感じる。これは私が相馬郷土研究会に入会して日々感じていることである。転勤で仙台に戻った私にとって、昨日の相馬は二ヵ月半振りであった。仙台駅から再通したばかりのJR常磐線の上り列車に乗り込み、大動脈の復帰を祝った。これに関... 続きを読む