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伊達騒動中心人物・原田甲斐一族供養会の解散と石碑の設置

3871番目の投稿である。地元の新聞である河北新報に寛文事件(伊達騒動)の中心人物とされる原田甲斐宗輔一族供養会(正式名称「三地蔵尊供養会」)の解散と、新たな石碑の設置のことが掲載された。寺は仙台市青葉区新坂町の荘厳寺だが、原田甲斐の菩提寺ではない。供養会のメンバーは寺の檀家や歴史愛好家だということである。2004年から毎年活動(伊達騒動の講座や般若心経の写経など)を行い、2019年まで供養会を開... 続きを読む

ウイークエンドの私・伊達騒動あれこれ

大河ドラマ「樅ノ木は残った」オープニングリンク動画解説大変古いNHKの大河ドラマ・山本周五郎原作『樅ノ木は残った』(1970年放送)である。大河ドラマとしては第8作で全部で52回の放映であった。このオープニングはいわくつきで、様々な能面をいくつかのアングルから映しつつ、強風に翻弄される竹林の映像を映し出すもので、幼い子供は泣いて怖がったとされる。『樅ノ木は残った』は周五郎が独自の視点で伊達騒動(寛文... 続きを読む

仙台市北部古街道(秀衡街道)探訪その2

3819番目の記事である。今回は先日の古街道探訪のその2をお伝えしたい。青葉区の水の森市民センター(昔、荒巻スケートセンターがあった場所)の東側にこのような細道があるが、これが古街道(奥州山道とも、秀衡街道とも)である。この日は除草作業(仙台市発注の公共事業)のため、人ひとりがやっと通れるほどの状態であった。入口から数十メートルほど進むとこのような叢塚(くさむらづか)がある。仙台市民図書館のレファ... 続きを読む

住居表示から消えた古街道を追う

散策中にこのような公園に出くわした。公園の名は古街道東中公園である。そういえば古街道という地名はいつの間にか住居表示から消えてしまった。古街道は秀衡街道とも言われ、中世以来の平泉への道である。古街道は仙台市内から上谷刈に通じる生活道路としてその後も存続していたが、各所で寸断されたり道筋が変化している。古街道の別名は秀衡街道のほかに義経道、奥州山道(せんどうさんどう)、奥州街道などと呼ばれる事もあっ... 続きを読む

宮城刑務所はなぜ史跡の上に建てられたのか?

宮城刑務所はなぜ史跡の上に建てられたのか?リンク動画解説My動画のリンクである。ここは宮城刑務所(仙台拘置支所)の入口である。実はここは仙台藩祖・伊達政宗の晩年の居城であったところである。伊達政宗と言えば、宮城県や仙台の骨格を創った人物なのでなら本来ならば史跡になるはずなのだが、どういうわけか刑務所が建てられたのである。その謎を解くために私は、何度も若林城跡(宮城刑務所)に足を運んだ。動画中には江戸... 続きを読む

石巻千石船の会総会の模様を動画にまとめてみました

豊かなシニアライフ:歴史研究会への参加で何を得たのか?リンク動画解説一昨日参加した石巻千石船の会の総会の動画をアップロードした。動画タイトルに「石巻千石船の会」を入れなかったのはYouTubeのアルゴリズム(当該サイトに使われていない言葉を用いるとコンピューター分析から外れる)から外れることを懸念したからである。詳しい内容は動画をご覧頂きたい。総会に出席する前に石巻市街地を散策してみた。遠洋漁業の港町とし... 続きを読む

4年ぶりに石巻千石船の会総会に出席しました

本日、私は朝から高速バスで郷里の石巻に向かった。目的は石巻千石船の会(郷土研究会)に出席することである。2020年から2022年までコロナのために中止になったので、2019年以来、4年ぶりの開催となった。会場は例年通り、南浜に隣接する門脇地区の門脇東復興住宅集会所である。会場にはこのような歴史資料(年号や江戸時代の地図や塩田の地図、付随する作業小屋など)である。中にはこれまで、長らく蔵の中で埃をか... 続きを読む

東北人から見た世良修蔵観 単なる憎悪かそれとも…

  長州藩士.世良修蔵. ドキュメンタリー幕末維新 伊丹十三 前書き 戊辰戦争に関わったルーツを持つ東北人の年配者の多くは長州藩士・世良修蔵を憎み、恨んでいる。歴史と馴染みのないかたには関係のないことなのかも知れない。だが世良修蔵のことを知れば知るほど許し難いものを感じるのである。去る10月12日、私は福島市内で偶然にも長州藩士・世良修蔵の墓標(稲荷神社敷地の北東部の角地)を発見し、大変驚くとともに何... 続きを読む

仙台市の職人町畳屋丁を訪ねて 昔は畳屋町と呼ばれた

去る9月11日(日)若林区の畳屋丁を訪ねた。住居表示は仙台市若林区畳屋丁となるが、セクションとしては非常に狭い地域(東西≒350m、南北≒250m)である。由来は町名の由来は文字通り畳職人たちが住んだことからこの名がつけられたという。畳屋丁は南染師町の北にあり、東は六十人町(足軽町)に、西は穀町に接する町。 寛永年間末(1643年)頃までに取り立てられたとされる。現場は古い低層住宅と中層のアパートが... 続きを読む

少ないモノで人生を愉しむ:江戸庶民の生活ぶり

久しぶりに「近世以前のもの」のカテゴリーの更新である。最近とても面白い本を読んだ。菅野俊輔著「江戸のエコ生活」である。昨今、ミニマリストが注目されているが、多くの物に恵まれていることと幸福度、満足度は必ずしも比例しない。却って物が少ないほうがいいと感じることがある。例えばデジタル社会の生んだスマホは確かに便利だが、逆にその利便性に振り回されることがある。家電製品も然りで、単に必需品と思い込んでいる... 続きを読む

伊達政宗を育てた名僧・虎哉宗乙の人物像

久しぶりに「伊達政宗の研究」のカテゴリーの記事の掲載である。以前から気になっていたのだが、伊達政宗を育てた名僧・虎哉宗乙(こさい そういつ)のことである。仙台市の青葉区図書館(メディアテーク)には一冊の虎哉宗乙に関する資料があるのだが、非常に分厚い本ということもあり、恥ずかしながら気遅れしていた。伝記的な著はないものか?と探していたのである。私の目に留まったのは小和田哲男氏(NHKの歴史番組に何度も出... 続きを読む

東街道をゆく 宮城野原その2宮千代塚

一昨日の8月24日、私は宮城野区の宮千代地区を訪ねた。宮千代塚のある宮千代児童公園は鈴虫壇と目と鼻の先にある。方角は南南東で直線距離にして三百メートルほどである。向かい側のセブンイレブンの駐車場からは児童公園の全容を見渡すことができる。Google3D立体画像で宮千代児童公園の位置を確認して頂きたい。宮城の萩大通りからは西に一本入った通りに面している。公園には数箇所の入口があるが、三叉路に面した所が南側... 続きを読む

東街道をゆく 宮城野界隈 鈴虫壇に遊んだ仙台城の姫君

本日は週の中休みを利して、文芸誌「みちのく春秋」への寄稿のための取材を行った。向かった場所は宮城野区の宮千代地区である。先ずは最初の目的地である鈴虫壇に着いた。仙台東ロータリークラブ発刊「詩歌の宿 心の宿 宮城野」によると、安永年間(1772~1780)の地誌『残月台本荒萩』に「榴か岡の東に広き野あり、これを宮城野原という」との記載があり、「東は海辺まで」とされる。往時は沖積でできた広大な荒野一帯... 続きを読む

相馬野馬追:初陣の総大将は14歳の相馬言胤氏

 無形民俗文化財「相馬野馬追」3年ぶり本格開催 リンク動画について国の無形民俗文化財となっている相馬野馬追が7月23日~25日までの3日間に渡って開催された。一昨年と昨年はコロナのために規模縮小となったが、今年は三年ぶりに本格的な開催となった。話題としては総大将が14歳で初陣を飾ったことである。総大将の名は相馬言胤(としたね)氏である。相馬野馬追の総大将は相馬家の血をひく者だけがなり得るものである... 続きを読む

仙台藩志会歴史講演会「江戸時代の石巻湊」

久しぶりに仙台藩志会主催の歴史講演会・伊達学塾に参加した。仙台藩志の「志」はけして嘘字ではない。志があれば仙台藩士の末裔でなくても誰でも参加できるというニュアンスがある。自分は過去に二回出席したことがあるが、そのうちの一回(2015年1月)は支倉常長の末裔のかた(故支倉常隆さん:第13代支倉常隆家当主)とお逢いすることができた。https://gbvx257.blog.fc2.com/blog-entry-1060.htmlもう一回は伊達政宗公... 続きを読む

熊谷万山が昭和初期に描いた宮城野原のおもかげと東街道

昨日、宮城野区図書館で「仙台市史 特別編7(城館)」を借りた。その中に興味深い絵図があったので紹介したい。実は宮城県の県名の由来は宮城野原にあると言ってよく、このあたりは貴族の詠んだ和歌の歌枕にもなっている。宮城野とは広義には陸奥国宮城郡の平野(広大な沖積平野)を指す。その昔は葦や葦の生い茂る原野であり、秋ともなれば鈴虫の鳴き声が聞こえる風流な地であった。宮城野にちなんだ和歌としては「宮城野の... 続きを読む

伊達政宗公の命日 仙台の基盤はこの人物抜きに在り得ない

 NHK大河ドラマ 独眼竜政宗 オープニング 【コラム】今日5月24日は仙台藩祖・伊達政宗公(1567~1636)の命日である。政宗公の霊を弔う意味で、自分が普段から思っている政宗像を主に記事を書きたい。先ずはこの肖像画をご覧頂きたい、下膨れのよく知られた政宗公とは別人とも思えるが、隻眼で描かれたこの像こそが実像に近いのでは?と考えている。私は壮年期に描かれた隻眼の政宗公こそが、野心に生きた最後の戦国... 続きを読む

吉田松陰仙台訪問170周年:仙台藩士粟野杢衛門菩提寺を訪ねる

本日は久しぶりに「幕末の仙台藩の研究」のカテゴリーの更新である。実は吉田松陰(1830~1859)は今から170年前の今日、盟友の宮部鼎蔵(熊本藩士1820~1864)とともに、仙台(止宿先は芭蕉の辻付近と言われる)に滞在していた。本日は二人の前後の行動を追いながら、石巻訪問時に二人の案内を行った仙台藩士・粟野杢右衛門(1815~1862)の墓所のある仙台市の江巌寺(曹洞宗)を紹介したい。松陰らの... 続きを読む

春の光に望みと喜びを託して 仙台市米ケ袋地区東街道の探索

  JS BACH - JESU, JOY OF MAN'S DESIRING BWV 147  【コラム】久しぶりにジョナサン・スコットのチャーチオルガンの曲をリンクした。春は別れと門出の季節であり、別な言葉に置き換えれば、けじめの季節とも言える。「主よ人の望みよ喜びよ」はそんな季節に聞くに相応しい曲である。セカンドライフとなって数年が過ぎ、自分がいつまで今の企業に在籍できるかはわからない。あくまでも契約次第だからである。若い時分は自分の... 続きを読む

支倉常長末裔・支倉常隆様への追悼

Hasekura Tsunenaga the Samurai Ambassador to Europe in 1615 支倉常長【コラム】仙台藩士・支倉常長の末裔の支倉常隆氏が、去る12月5日に亡くなった。支倉常長と言えば伊達政宗の命を受けメキシコからヨーロッパに渡り、大国スペインとの貿易交渉を担った中心的人物であり、宮城県の誇りでもある。常隆氏は分家筋には当たるものの、支倉常長家の13代当主であられる。常隆氏は2016年に自宅近くで車にはねられ寝たきり(... 続きを読む

歴史随筆『東街道をゆく』 鈎取~茂ヶ崎

鹿除土手(ししよけどて) 二〇二一年の四月、私は東街道の山田地区、鈎取地区を訪ねる際、太白区山田市民センターに立ち寄った。東街道絡みの史跡に関する資料を収集する為である。その際、市民センターの建物の傍にフェンスで囲まれた一画があるのに気づいた。どうやら史跡らしい。それは藩政時代に造られたとされる鹿除土手(杉土手とも)を現状保存したものである。(山田地区の土手の全長は約五十メートル)鹿除土手は仙台藩... 続きを読む

仙台市の旧道「唸り坂」とは?

  仙台市にある唸坂を走ってきた【旧道】  リンク動画について本日は仙台市青葉区の八幡町方面の面白い名称の旧道を紹介したい。その名は「唸り坂」(うなりさか)である。何と18パーセントの急勾配である。仙台城の石垣の傍にこのような説明書きがある。仙台城の石垣に使われた巨石は国見・大石原周辺から切り出され、唸り坂を通って牛越渡し(現牛越橋辺りと思われる)経由で川内の仙台城に至ったということである。もちろ... 続きを読む

宮城刑務所(若林跡)一周ウォーキング

自宅の周りをウォーキングすることの多い自分だが、本日は時間があったので若林区にまで足を延ばした。バイクをゴミ置き場の前の邪魔にならない場所に止めた。ゴミ置き場越しに見える赤っぽい建物が宮城刑務所である。仙台藩祖の伊達政宗公が晩年近くになって住んだのがここ若林城である。もっとも晩年近くの政宗公は江戸詰め(江戸屋敷)が多くなったので、参勤交代で仙台に帰ってきた際の居城と言ったほうが的を得た言い方である... 続きを読む

太白区鹿落観音から見下ろす東街道

本日は昨日訪れた太白区の鹿落観音のことを掲載したい。方角にして南東方向になるが、ここを真っすぐ進むと八木山入口を経て愛宕山~大年寺山~茂ヶ崎に至る。複数のルートを持つと言われる東街道だが、このルートは最も西側の道となる。今は仙台市道となっていてバス通りでもあるが、周囲にはマンションも建ち並び、活気に溢れた様相を呈している。北側に目を移すとY字路が存在するが、瑞宝殿(仙台初代藩主伊達政宗の廟所)の看... 続きを読む

中世豪族の留守氏と国分氏、小鶴城で激突

初めに 私は去る7月末に宮城野区に位置する小鶴城跡を訪ねたが、本日は中世の頃、この城で行われた豪族同士の合戦について述べたい。参考にした資料は平成5年発行の紫桃正隆著、鈴木久光発行の『みやぎの戦国時代 合戦と群雄』と平成元年仙台市発行の『「新」目で見る仙台の歴史』である。 伊達氏が君臨する以前の仙台平野の支配者 伊達政宗が君臨する以前(中世の頃)の仙台平野の支配者は一時期、国分氏(中世豪族)に... 続きを読む

石巻千石船の会が日本河川協会から表彰を受賞

以前も紹介したが、私の所属している団体である「石巻千石船の会」が公益財団法人日本河川協会(松田芳夫会長)から河川功労者として表彰を受けた。会員である私には隔月(奇数月)ごとに会報誌が届くが、今回の受賞は7月号(第160号)に掲載された。日本河川協会は昭和24年創設で、治水、利水、環境の他、歴史・文化・河川愛護・国際貢献・地域振興の観点から社会に対して功績のあった個人や団体を表彰してきた。選考の基準... 続きを読む

仙台市宮城野区:小鶴城址を訪ねて

本日の午後、私は宮城野区の史跡の探訪に向かった。目的地は国分氏の家臣である逸見丹波が1394年頃居住したとされる小鶴城跡である。すぐ近くを東街道が通っていることから、現在執筆に取り組んでいる歴史作品『東街道をゆく』の一拠点として、この城跡を外すことができないと踏んだからである。参考にした資料は郷土史家の紫桃正隆(1921~2008)著『仙台領内古城・館 第三巻』(宮城県中央部)である。私はこれまで... 続きを読む

太白区に現存する藩政時代の杉土手:茂ヶ崎地区

本日、私は太白区茂ヶ崎地区を訪ねた。目的は藩政時代に造られた杉土手の東のセクションを確認する為である。事前に入念な下調べを行った後に出かけた。画像は黄檗宗大年寺の惣門である。石段を下った先(南側)には門前町が拓け、往時の面影を現代に残している。大年寺には仙台藩主の廟所があるが、拙ブログでも何度か紹介したことがあった。以下:大年寺ホームページより引用両足山大年寺元禄9年(1696年)11月、第四代仙... 続きを読む

石巻千石船の会が日本河川協会から表彰されます

  津取場和幸 石巻弁講座パート4  【コラム】石巻のユーチューバー津取場和幸氏による石巻弁講座part4である。動画を選んだ理由は読者各位に石巻弁のイントネーションを知って欲しいという理由からである。撮影者の女性とは息が合っているようだが、或いは奥さんだろうか?津取場氏が女性と乾杯した後で述べる「まぶい」(眩い)はけして方言ではないが、石巻人が普通に使う言葉である。石巻弁の特徴は標準語と方言が入り混... 続きを読む

東街道沿いの名取三社と名取老女の伝承

初めに私は現在、文芸誌「みちのく春秋」に掲載している『東街道をゆく』を執筆中だが、昨年の春から今年にかけて名取三社と言われる三つの由緒ある神社を訪れた。本日はそのことについて書きたい。熊野神社 名取熊野三社の中ではで中心的存在。以前は熊野新宮社と呼ばれたが、明治以降は熊野神社と改称された。祭神は速玉男尊、伊弉再尊、事解男尊、菊理姫神、ほかに4柱を祀り、東北地方屈指の熊野神社の一つとされる。古くから... 続きを読む

仙台鈎取地区の東街道と栗木の渡し

本日は去る4月21日に訪問した東街道栗木の渡し(栗木渡しとも)を紹介したい。先日紹介した鈎取の太子堂で二口街道と交わる小路(この道が東街道と思われる)を南下すると栗木橋に行き当たる。名取川に架かる栗木橋を渡ると名取市となる。画像では向かって左側が名取市側である。Google3D立体画像で鈎取の聖徳太子堂との位置関係を確認して頂きたい。これらの位置から言って、この道が東街道である可能性は高いと見ていいよう... 続きを読む

東街道沿いの鈎取聖徳太子堂を訪ねて

本日は天気も良かったので太白区鈎取の太子堂を訪ねた。左右に位置する道は秋保街道とも二口街道とも言われた旧道である。T型に交差する小路も旧道と思われるが、或いは東街道なのかも知れない。東街道とは律令国家としての骨格が作られた古代から中世にかけての道路であるが、全体像は極めて朧である。さしずめ、大和政権が蝦夷を制圧する為に造った道と考えても間違いはない。実はこの辺りの名取川渡河の東街道のルートには数説... 続きを読む

名取市の東街道周辺高館地区の探訪

本日は週の中休みを利して、名取市内の東街道にちなんだ高館地区の史跡を訪ねた。こういう時は小回りの利くバイクが便利である。土地の古老にお会いしたときのことを考えてヘルメットはジェット式(顔を出すタイプ)をチョイスした。ローカルな場所でフルフェイスを被ってうろつくわけにはいかないので当然の選択である。おおよその位置をヤフー地図で確認して頂きたい。名取市でもかなり北部のほうである。史跡の詳細は後日の記事... 続きを読む

名取市の史跡植松城跡を訪ねて

本日は去る十日前の3月11日に訪ねた名取市の植松城跡(満仲館跡)を紹介したい。と言ってもこの名称は極めて知名度が低く、一般的には雷神山古墳の小塚と言う名称で呼ばれることが圧倒的に多い。自分も小塚のことは知っていたが、ここに古城(館)があったとは知らなかった。古墳時代に造られた古墳の上に館が造られるのはそう珍しくはないが、この植松城跡に関しては地元のかたにとってもマイナーな存在と捉えている。駐車場に... 続きを読む

晩翠通と北一番丁の辻・仙台藩町奉行所跡を訪ねて

去る2月の初め、私は青葉区の街中(北一番丁と晩翠通の交差点の傍)で見慣れない立札を見かけた。立札が立っているのは画像のほぼ中央に位置する電柱の左脇のところである。どうやら史跡に関するものらしい。史跡があった場所は右側の白い建物(仙台市役所二日町分庁舎)のところである。幕末の安政時代に描かれた地図に「町奉行御殿屋敷」と書いてある地点がここ(北一番丁)である。奉行所があったのは赤線で囲んだ部分だが、左... 続きを読む

みちのく春秋『東街道をゆく』岩沼Ⅱ

初めに間もなくみちのく春秋の寄稿の締め切りが迫ったが、本日はその下書きをブログに掲載したい。以前にアップした史跡もあるが、文献などを調べて大幅に見直していることを最初にお断りしておきたい。調べたことをそのまま書くのではなく、所々に私見も入れてエッセイ風としている。アドリブを入れない歴史エッセイはつまらない。面白いか否かは読者諸氏の主観に委ねたい。金蛇水神社 岩沼市の東街道を訪ねたのは2020年の5... 続きを読む

岩沼の鵜ヶ埼城跡を訪ねて

本日は去る5月に訪れた岩沼市の鵜ヶ埼城跡について紹介したい。現在私は文芸誌みちのく春秋に作品を寄稿している。テーマは『東街道をゆく』である。今回紹介する鵜ヶ埼城はJR岩沼駅の西口で、古くから東街道と言われる道(現在の県道39号線の辺りと言われる)からやや離れているが、この土地の歴史(発掘物は縄文時代に遡る)と歴代城主の顔ぶれからいってどうしても外せないと判断し、掲載に至った次第である。ここが岩沼駅西... 続きを読む

東街道をゆく 名取編その1

本日は去る5月に訪れた名取市笠島地区の笠島廃寺跡についてお伝えしたい。元禄2年(1689年)5月、藤原実方(実方中将とも)の墓や西行の足跡を辿ろうとした松尾芭蕉は生憎の梅雨の天候にたたられ、ぬかり道によって進路を阻まれ、その無念さを「笠島はいづこさ月のぬかり道」という句に遺している。笠島廃寺跡と藤原実方ゆかりの佐倍乃神社(さのえ神社)とは200メートルほどの距離である。佐倍乃神社と藤原実方の墓は1... 続きを読む

東仙台地区に現存する旧道 東街道を訪ねる

本日は休みを利して宮城野区原町地区~東仙台地区を南北に走る旧道・東街道の探索を行った。文芸誌みちのく春秋に連載中の『東街道をゆく』の取材である。方向的に順繰り北に移動して行くので、この区間が文芸誌に掲載される時期は来年の夏以降になるのかも知れない。それでも備えあれば憂いなしである。私は自分の心にこの言葉を言い聞かせてバイクに跨った。ここは原町通り(旧塩竃街道)と東街道が交わる辻である。ともに旧道な... 続きを読む

広瀬川に存在する三百万年前のセコイヤ類化石林:東街道渡河点

ここは去る9月22日に訪れた仙台市青葉区の米ケ袋地区である。釣りに興ずる釣り人がなんともいい風情である。向こう岸のは霊屋と言って仙台藩主の初代~三代が眠る廟がある経ヶ峰に近い場所である。簗場のようなものが見えるが、川床に何か白い岩のようなものが確認できる。※以下仙台市ホームページより引用霊屋下の広瀬川河床に点在するセコイヤ類化石林は、約300万年前(第三紀鮮新世)に生育していた森林の立木が多量に流れて... 続きを読む

東街道巡りのために宮城野原を訪ねる

本日の週の中休みを利して、私が向かったのは仙台市宮城野区木ノ下4丁目の旧道・東街道である。左側の石碑には東街道と刻まれている。突き当りのT字路を右に向かえば陸奥国府のあった多賀城に至る。本日は天気も上々ゆえ、そのルートを辿り周辺の史跡に接することで、今手掛けている『東街道をゆく』の執筆の追い風としたい。Google3D立体画像をご覧頂きたい。上の写真を撮影した方向を確認して頂きたい。黄色が本日のルートで... 続きを読む

古くは東街道だった仙台の鹿落坂

去る9月22日、私は東街道があったとされる青葉区の鹿落坂の対岸の米ケ袋地区を訪ねた。寄稿している文芸誌「みちのく春秋」に連載している『東街道をゆく』執筆の取材のためである。東街道に関しては現若林区白萩町の薬師堂近辺(木下)を通ったとされるが、このルートだと大きく遠回りとなる。広瀬川の渡河に関してはもっと下流の部分(根岸交差点そばの宮沢橋付近)にもポイントがあったと私は考えている。古代から存在した東... 続きを読む

拝啓、相馬のH様

前書き 盆前の或る日、相馬にお住いと思われるH様(初対面)から、拙ブログに書き込みを頂いた。その記事は5年前のもので「童生渕の戦い」と「相馬隆胤討ち死に」に関することである。URLはhttps://gbvx257.blog.fc2.com/blog-entry-985.htmlである。戦国時代の伊達と相馬の間で行われた戦ではあるが、刃をまみえた両軍の兵の数が非常に少ない戦ゆえ、知名度が低く、郷土史愛好家でさえも知らないかたが多い戦である。但し、合戦... 続きを読む

東街道をゆく 岩沼編その7

本日は昨日訪れた岩沼市長谷地区の長谷城と長谷一族について述べたい。参考にした資料は郷土史家故紫桃正隆著『仙台領内古城・館 第四巻』と長谷家百々(どうどう)地区調査チーム制作『長谷氏と古城』である。武石氏と亘理氏はけして別系の家譜ではない。千葉常胤という武将が奥州伏原征伐で源頼朝から恩賞として広い領地を得て、息子たちに分け与えた。武石氏の祖となった武石胤盛は千葉常胤の三男であった。その流れをくむのが... 続きを読む

東街道をゆく 岩沼編その6

本日私は久しぶりに岩沼に向かった。理由は二つの城跡の取材である。文芸誌「みちのく春秋」に連載中の『東街道をゆく』の「その3」を書くためである。前回は金蛇水神社のことをブログに書いたが、これだけでは何か物足りないものを感じたのである。宮城県(一部は岩手県南部)の城や館の跡を巡るとき、参考になるのが郷土史家・紫桃正隆氏の書いた『仙台領内古城・館』(全5巻)である。本書は1400箇所近い城や館を取材した... 続きを読む

東街道をゆく 岩沼編その5

岩沼市の東街道を訪ねたのは5月13日(水)のことだった。本日は岩沼市を走る東街道の近くにある金蛇水神社(かなへびすいじんじゃ)を紹介したい。これは神社に隣接する庭園だが、自然の丘陵を利したもので見事に周囲の景観に飛び込んでいる。金蛇水神社は鳥居を初め、建物全体は結構新しい。鳥居をくぐると藤棚があり見ごろを向かえていた。マスクをつけた年配の方が憩われていた。金蛇水神社の位置を地図でご覧いただきたい。... 続きを読む

仙台駅3階に伊達政宗公の騎馬像が復活!

 HOLST - JUPITER (THE PLANETS) HUDDERSFIELD TOWN HALL ORGAN リンク曲についてホルストのジュピター(惑星)である。3分近くから始まるメロディーは名誉に満ちた旋律だが、スポーツの表彰式などで、来賓からプレイヤーがメダルやトロフィーを贈られる場面でよく用いられる。文字通り本日は永く名誉を讃えねばならない郷里の偉人を想い、この曲をリンクに選んだ。最寄りのシーンでは昨年のワールドカップ日本大会の決... 続きを読む

東街道をゆく 岩沼編その4

本日は去る5月13日に尋ねた東街道の続きをお伝えしたい。千貫神社(せんがんじんじゃ)は先に紹介した東平王塚古墳とは道路を隔てた向かい側に位置している。オレンジ色の鳥居をくぐると左のようにこのような祠が立っている。以下宮城県神社庁より引用 千貫神社所在地:宮城県岩沼市南長谷諏訪128-2主祭神は大山祇神、別雷神、建御名方命、天御中主神、菊理比売神、伊邪那岐神とされる。天平元年(729年)僧善快が千貫... 続きを読む

東街道をゆく 岩沼編その3

去る5月13日(水)に訪問した岩沼市原遺跡について原遺跡は2018年の秋に第3次発掘調査が行われたが、10月27日と28日には一般公開されている。動画はその時に撮影されたものと見られる。現在はJR常磐線の鉄道の敷地や農地として使われているため、発掘された場所は一部と見られる。 宮城県岩沼市 原遺跡 一般公開 これは私が今年の5月13日に訪れた時の原遺跡(南側から撮影)だが、第3次発掘調査も終わり現在... 続きを読む

東街道をゆく 岩沼編その2

前回紹介した原遺跡(三回に分けて調査が行われた遺跡)について補足させて頂くならば、一辺が一メートルにも及ぶ大きな柱穴跡が三基並んでおり、7世紀~9世紀にかけての土器や須恵器(円面硯を含む)が出土したことである。円面硯は東海地方で作られたものとされ、東北では初めて出土したものであるという。これによってこの建物が官衙として使われ、文字を使うことのできた役人や僧侶が使用していたものと推測されているという... 続きを読む