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※本日は文芸誌みちのく春秋に連載中の歴史随筆『我がルーツと大河北上』より、祖父方ルーツである大川家のことを抜粋し掲載したい。

我がルーツ大川家
私の祖父方のルーツである大川家は古くは現岩手県南部に住み葛西家の下級武士として代々仕えたが、戦国の世の末を向かえ、既に勢力の衰え始めた葛西に見切りをつけていた。この頃の一族の生活は貧しく、やませ(北日本の太平洋側で春から夏にかけ冷気に見舞われる現象。低い雲や霧がかかり農作物に深刻な影響をもたらす)による土地柄と深刻な飢饉の影響で衣食住もままならず、家族や親戚を失うのは珍しいことでなかった。

この時代の足軽と下級武士の境界は曖昧で、いざとなって戦の際は槍や刀を持つものの、普段は食うために百姓となる。大川家も普段は鋤や鍬を持ちながら、いざとなったら戦場で功を成すことを考えていた。この頃の身分制度は士農工商と言われるが、ヒエラルキーが支配する武士集団の下では、士と農との両面を併せ持つ者が数多く存在していたのである。彼らと百姓の違いは一概に言って年貢の有無となるが、年貢がない分兵役に縛られることになる。水呑み百姓から身を起こした豊臣秀吉もそのような境遇の人物であった。

葛西氏は奥州の他の大名同様に、古くは坂東武者の出で、下総国に領地を持つ豊島氏を起原としていた。葛西清元とその三男である清重は奥州藤原征伐において源頼朝の家臣として功を成した。奥州葛西氏はその功によって現岩手県南部、沿岸、宮城県北部に広い領地を得た名門であったが、隣国の雄伊達氏の台頭もあり、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の奥州仕置により滅亡に至った。

この時秀吉は有無を言わさず伊達政宗に大崎や葛西の一揆制圧と残党狩りを命じた。翌年の天正19年(1591年)、政宗は佐沼城に篭城する二千数百の者を撫で斬りにするなどした後、家臣の泉田重光に命じ、大崎一揆の首謀者らの残党を須江山(現石巻市須江細田)に集めた。「降参した者に対しては領地は小さくなるものの名は残す。太閤秀吉様には軽い裁定を裁定をお願いする由…」

葛西旧家臣らはそんな甘い言葉を信じ、帰ろうとしたその時、林の影に潜んでいた伊達武者の一群が一斉に襲い掛かった。弓、鉄砲等で武装した伊達の精鋭軍団に不意打ちをくらった葛西残党らはひとたまりもなかった。屈強な伊達武者軍団の中には後に政宗から遣欧使節団を任される支倉常長も居た。こうして従者を含め、数百人にも及ぶ大殺戮が行われた。

主君葛西への見限りがもう少し遅れたら、大川家のその後の生き残りはなかったのかも知れない。戦国末期の激動の波に弄ばれながら、大川家は細々と血筋を繋いできた。そんな大川家に嫡男儀左衛門が生まれたのは1598年(慶長3年)、葛西氏が滅んで8年目のことであった。残党狩を恐れて一端は葛西を離れた大川家だが、このままでは路頭に迷うしかない。度重なる飢饉がこれに追い討ちを掛け、その日その日を生きるのが精一杯だった。

「逆風に見舞われながらも、雑草の如く強かに生き残るには二君に仕えるのも止むを得ず」先祖からこうした家訓を受け継いだ儀左衛門は、かつては敵対した伊達家の庇護の下に入ろうと考えた。伊達の領地は奥州仕置で不毛な土地(旧葛西領地)に移ってしまったが、大川家が生き伸びるにはそれしかなかったのである。

伊達政宗の野望と川村孫兵衛の召抱え
大川儀左衛門が伊達への服属を決めたころ、伊達家は大きな転換期を迎えていた。もはや戦が強いというのは過去の夢物語であり、これからは経済力の時代であった。「武力で百万石が手に入らぬなら、不毛の土地を切り拓き稲作をもってこれを手に入れてみせよう!」伊達政宗の抱いた構想は極めて壮大なものだった。政宗は旧葛西領の北上川流域に広がる広大な土地に目をつけた。ここには大河が流れている。この北上川こそが自領に富をもたらす川であると考えたのである。

河口の石巻には葛西氏ゆかりの湊があったが、往時の石巻湊は大型船が入港出来ない小規模なものであった。それと中流域(現登米地方)では大雨が降る度に洪水を繰り返していた。石巻を立派な湊にしてみせる。政宗は心に固く誓った。政宗が見込んだ川村孫兵衛は才気に溢れた人物だったが、ただそれだけではなかった。孫兵衛は他人の痛みのわかる徳の厚い人物でもあった。孫兵衛がこの地で名を成した理由としてその高い技術力もさることながら、高い人徳も挙げねばならない。

伊達政宗には、かつて敵対した側の武将でも自分の役に立つのなら躊躇なく家臣として召し抱えるという傾向があった。彼は人物の資質を見抜く確かな眼力と合理的な指向の両面を備えていたのである。「この男なら困難を極める普請も任せられる」政宗は他所者を抱える際の扱いも巧みであった。召し抱えた武将が再び変心に至らぬよう、十分な恩賞を与えたのである。

関ヶ原の戦いの後、孫兵衛が伊達に来た際も政宗は名取郡の早股に五百石を与えたが、孫兵衛はこれを丁重に辞退し、代わりに百石と未開の荒地を賜ることを自ら願い出た。これは旧家臣のやっかみを案じてのものだった。新たに召し抱えた家臣がこうした処遇を辞退するのはけして珍しいことではない。武家社会では新参者への妬みほど恐ろしいものはない。苦労人である彼には、伊達の古参の家臣の心がよく見えていたのである。

困難を極めた改修工事
川村孫兵衛がこの普請に取り掛かろうとしていた頃藩の財政難が続いていた。藩から捻出される資金が大幅に不足していたのである。資金が不足しては人足も集められない。この難問を打開に至らしめたのが、仙台藩特有の制度だった。この制度は新しい領地で家臣や陪臣に知行地を与えるときに、耕地と野谷地を併せて支給し、一定の期間(5年~7年ほど)は年貢を取らず、期限を迎えたところで検地をし、初めに定めた知行高を超えて新田となった際は、超過分を藩直轄地とするという画期的なものだった。百姓に頼らずに労働力を家中で確保する。こうした采配が北上川改修事業にも反映されたのである。

それでも資金は大幅に不足していた。孫兵衛は私財を投じ、第一線で人足らと寝起きを共にしてこの大事業に挑んだ。孫兵衛はこの大事業に取り掛かる際、工事の安全祈願と成就を期して日高見神社(北上川の水神が祀られている神社)から宮司を呼び寄せ、祈祷を行うとともに、これから従者となる者と固めの杯を杯を交わした。「皆の者、この度は厳しい普請となろうが、必ずしや殿の御意向に沿い、この川を奥州一の大河としてみせようぞ!」「おー!」儀左衛門は熱き思いに駆られ頭領である孫兵衛からの杯を受けた。

※石巻市桃生町日高見神社


孫兵衛は新たに水路を広げる策として箱堀工法(敢えて総堀とせずに矩形の桝を連ねて掘削し、増水期に乗じて一気に水を流す工法)を採用した。人力の他は牛馬だけが頼りだった往時のことである。水分をたっぷりと含んだ粘土質の土を掘削するのは困難を極めた。時に川というものは生き物の如く変化する。箱堀が完了する前の中途半端な状態で、洪水時に遭遇すればこれまでの苦労が徒労に終わりかねない。そんな時は命懸けの対応を求められた。それでも常に第一線で寝食をともにする孫兵衛は従者から信頼を集めるまでになった。

「儀左衛門よ、おぬしなかなか精が出るのう…」或る日、孫兵衛は家来である儀左衛門に気さくに話しかけた。時に孫兵衛四十二歳、儀左衛門二十歳であった。儀左衛門はそんな孫兵衛に優しさを感じた。頭領の言葉もすっかりこの土地に馴染んできたようだ。「川村様、北上川の普請は伊達家の恩為にもござりまする」儀左衛門はきりりとした目つきで頭領にそう返した。

川村孫兵衛による一連の北上川改修工事は和渕上流付近の三川合流のほか、柳津~飯野川間を経て、1623年(元和3年)からは鹿又~石巻河口の流域にも施された。背に腹は変えられない。孫兵衛は河口の石巻を守るために、川を鹿又下流を過ぎてから北上山地の南端に当たる牧山まで西進させ、その後再び東に180度引き返すように大きく蛇行させた。これは以前に培った水理学の応用であった。これによって袋状につき出した独特の地形(袋谷地地区・現石巻市水明地区)が形成された。こうした経緯を経て河口の石巻には、極めて良好な湊が形成され、大型船が入港できるものへとなっていった。

川村孫兵衛が石巻の門脇村釜地区に屋敷を賜ったのは自然の流れとも言えるが、大川家もこの頃から陪臣として孫兵衛の周囲に移り住むようになった。こうして江戸時代後期にかけて大川家一族は釜地区(牡鹿原、現石巻市大街道地区)周辺に広まっていった。

細谷十太夫と大川家の関わり
話は一気に幕末に飛ぶ。戊辰戦争に破れ、石高を半分以下とされた我が仙台藩にとって、明治は試練の時期と言える。大川家もその激動の中で喘いでいた。冬になると掘立て小屋には容赦なく隙間風が吹き込んでくる。食糧事情も劣悪で皆が生きるのに必至だった。そんな時に県による士族授産が行われることになった。

1880(明治13年)門脇村(現宮城県石巻市大街道地区)に開墾場を開設、初代場長には旧仙台藩士の細谷十太夫直英(1845~1907 戊辰戦争では鴉組の隊長として活躍する)が就任することになった。開墾地は北上運河周辺の官有地一体である。大川家は迷うことなくこの事業に入植者の一部となり、毎日泥まみれとなって働いた。

※仙台藩士 細谷十太夫直英(1845~1907 石巻市史第四巻P87より引用)


しかしながら、当初48名の入植者からスタートした開拓事業けして順調とは言えず、苛酷な労務から得られた収穫は惨憺たるもので当初は脱落者が続出した。この時、私の曽祖父・権兵衛(1863~1935)は十太夫とは18歳も年下ゆえ、開拓に携わったのは或いは高祖父・恵治なのかも知れない。二人は親族とともにこの大街道開拓に尽力し、広い土地を授かり一族の繁栄の為に尽力したと思われる。

石巻市史第四巻から、牡鹿原入植の趣旨を抜粋する。
1、牡鹿原開墾に於いては、明治13年(1880年)に歴史的な第一鍬を下ろすものとする。
2、新墾(初期の開墾と解釈)は明治14年より同17年までの4箇年に於いて成業するものとする。
3、開墾地は専ら、稲田、桑園及び芦栗の植栽を目的とする。
4、入場を許すべき士族は身体強壮にして労力に耐え、兼ねて農業篤志の者に限る。
5、入場者には独立移住の期まで、食費を給し且つ、一日五銭の手当金を支給する。
6、精勤に及んだ者には特に賞与を給する。
7、入場者には家屋、農具の貸与を行う。
8、開墾に供する農地の貸与期間は15年とし、その後に貸渡料を徴収する。
9、入植者が家族を呼び寄せる際、独立家屋の建造資金を支給し、別に扶助料(移住を開始した月から三ヶ月、一日一名食費・三厘三毛)を給付する。
10、成功を収めた場合、各一戸につき、田一町部、畑五反、宅地一反を支給し、家具や農具の貸付を行う。

入植者には希望に満ちたこの事業だったが、実際は私財を投入しないととても生計が成り立たないほどの状況だったという。特に穀物(さとうきび等)や野菜、果物(梨等)の収穫は入植者にとって大きく期待外れとなり、その多くが失望し離散したという。そのような経緯もあり、開拓を始めて僅か三年後の1883年(明治16年)には入植者の数は、約半数の二十戸ほどに減った。

※大街道開墾地絵図(石巻市史第四巻90ページより引用)


我が高祖父と曽祖父は死に者狂いで生業に励み、その二十戸の中に入った。これによって大川家はこの地に広い農地を有するに至った。そうして曽祖父・権兵衛の次男として1890年(明治23年)に生まれたのが私の祖父・清治郎である。大街道地区はこうした挫折を経て、入植者たちの努力によって肥沃な農地へと変わり、梨、麦、豆などの栽培に次々に成功した。入植者の生活に安定と繁栄がもたらされたのは大正時代に入ってからのことである。

ところで現在の石巻市門脇青葉西(大街道地区の中心部)にある青葉神社(藩祖伊達政宗を祀った仙台の相葉神社からの分詞)の鳥居の横に、1920(大正9年)に建立された「牡鹿原開墾記念碑」があり大街道開拓の経緯が刻まれてい石碑には場長として細谷の名が刻まれている。ちなみに細谷十太夫のその後は、1882年(明治15年)に開拓使権少主典に任じられ、部下を率いて北海道に赴き開拓に従事する。

※石巻市青葉神社と開墾碑


更に1894年の日清戦争では陸軍少尉となり、中国に渡って千人隊長として活躍し帰国後は警視庁小隊長となるがその後は身を転じて仙台城下の竜雲院の住職となっている。これは戦死した部下を弔いたいという彼の慈愛から出た行動であった。こうして明治40年(1907年)5月6日、細谷十太夫は63歳で波乱の生涯を閉じた。葬儀には大川家を始め多くの弔問客が訪れ、在りし日の十太夫を偲んだ。牡鹿原の湿地に鍬が入って27年目のことであった。

後書き
自分のルーツを遡ると、二人の仙台藩士に密接に関わったことがわかる。古文書などの資料は残ってないものの、原戸籍で大川一族の石巻への拡散を確認するにつけ、大きな流れから言って、その確度はかなり高いものと察している。

祖父方ルーツである大川家は何度も家存亡の危機に瀕しながら、都度不撓不屈の精神を発揮し不死鳥のように立ち直ってきた。今改めて祖父の力強い生き方を回想する時、自分の体内にも剛毅なる血が脈々と流れているのを認識する。東北太平洋沖地震から7年目を迎えた今、郷里石巻の復興が願って止まないが、ネバーギブアップを合言葉に、石巻を温かく見守って行きたいと考えている。

自分は2017年に石巻の郷土同好会である石巻千石船の会に入会した。これによって志を同じくするかたとの横の繋がりが出来、様々な情報も入ってくる。自分は祖父母から受けた返しきれないほどの恩愛を、郷土研究と執筆活動に尽くすことで、少しでも返したいと思っている。

横町挨拶
石巻千石船の会に入会することで、自分には新たな人脈が出来ました。これを宝と考え、多くの情報を得たいと考えています。但し自分は「分」を弁えています。「分」とは先人によって築き上げられたものを尊び敬う気持ちにございます。自分はこの気持ちなくして会員相互の誼は在り得ないと考えています。幸いにも石巻千石船の会に所属されているかたの多くは、その理を察して居られるようで、背筋を正される気が致します。

或いは西日本や関東にお住まいのかたには、この硬さが東北人の純粋さに重なるのかも知れません。自分はそれはそれで結構と捉えています。但しこれ以上の深入りはご遠慮願いたい。東北人の生真面目さの根底に位置する思考は不言実行というものであり、けして有言実行ではございません。そのへんの事情を何卒ご理解のほどお願いします。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。


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