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亘理地方に居ついた豪族十文字氏の夢の跡を追う
歴史探訪は資料に乏しくマイナーなものほどツボにはまる傾向にある。今回私が訪ねたのは鎌倉時代から室町時代にかけて宮城県亘理町の現逢隈地区東部を支配していた十文字氏の史跡である。

十文字とは道が十字に交わることが由来と言われている。昔はそのような事情(周囲の状況を名字に反映させた由)が多かったのではないだろうか?私はその十字路から数百メートルほど南に離れた地区にバイクを止めて、現地の様子を肌で感じ取り、少しでも己の心に刻もうと試みた。

※十文字館に関する情報を求めています。十文字館のことで何かご存知のかたはお知らせください。



十文字館の特徴はその敷地が南北に長く、東西との比率が3:1(南北に218メートル、東西に73メートル)にも及ぶことである。このへんの理由にゆいては定かでないが、堀などの地形的なことが関与したのでは?と捉えている。



ごらんの通り難攻不落とは縁のない平城ゆえ、敵に備え往時は水郷も張り巡らされていたのでは?と考察する。



この航空写真(約1.7倍に拡大可能)を見るとこの地域は阿武隈川の蛇行するあたりに位置し、治水のないころは水害にもあったのでは?と思うが、「ふるさと亘理 歴史の散歩路」によるとこのあたりは古くから耕作可能な比較的高い土地(自然堤防上)とされている。赤で囲んだところが十文字館跡である。



隣の十文字神社はその名前から十文字氏ゆかりの神社と思われる。



跡地北西部からのビューである。西側の水路(コンクリート製U字溝)は往時の堀の跡に創られたようにも見える。



十文字神社側(西側)から跡地の北部を望んでみた。画像のほぼ中央をご覧頂きたい。何か石碑らしいものが立っている。



拡大航空写真で十文字館跡をご覧頂きたい。(約1.7倍に拡大可能)
敢えてマーキングはしないが、左の縦長台形のセクションが十文字館跡である。



今は耕地として使われているようである。このへんで十文字氏の始祖について触れておきたい。(以下「ふるさと亘理 歴史の散歩路」より引用)

源義経の家臣であった渡辺綱の子孫と言われる源左衛門綱安が衣川の戦いに敗れて落ち武者になってこの地に根つき、地名から十文字(道が十字型に交わる)を名乗ったと伝えられる。

最近の研究では武石氏(亘理氏:相馬氏の祖であり源頼朝に仕え、奥州藤原征伐で武功のあった千葉常胤の三男)の一族とも言われ、一時は相馬氏と結びその同盟の証として、各地に現亘理町各地に妙見社を建立したとされる。

一時は栄華の兆しを見せた十文字氏であるが、その後1585年に伊達成実(伊達政宗の従兄弟)に滅ぼされ末裔は宮城県北部の涌谷に移ったとされる。



跡地の西部(中央)にはこうした地蔵や墓石のようなものが存在する。位置から言って恐らく十文字氏に関係したものと思われるが詳細は不明である。



更に北のほうに行くとこのような石碑が立っている。



十文字家始祖誌…、非常に興味深い文言である。



十文字家の子孫は帰農し明治初年は仙台に住み、その後東京に移住したと書いてある。今はどうしているのか気になるところである。



これは十文字家の先祖の墓標だろうか?土に半分埋もれた墓標に触れ、同家の波乱万乗とも言える栄枯盛衰振りを肌で感じた。



人類は今まで数限りなく栄華と衰退を繰り返してきた。今回の史跡探訪には、改めてその普遍性を強く感じるものである。
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