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エッセイ「ブログの敷居を下げられない訳」

人付き合いに於いて敷居が存在するようにブログにも目に見えない敷居というものが存在する。人気ブログを覗くと、そのほとんどは敷居の低さ(取っ付き易く、コメントしやすい雰囲気)を感じる。これには言うまでもなくブログ運営者の性格が大きく左右する。長年ブログを運営していると、中にはモラル的にどうか?と首をかしげるコメントに出くわす。様々なブログに接し、敷居の低いブログの多くはこれを許容している気がしている。

同じコメントをしても人によって受け止め方はまったく違う。Aさんには冗談で済んだことがBさんでは通用しないものとなる。こうした些細なことで当人同士の関係は遠ざかって行く。ブログに於いて見知らぬかたとの出会った際、大いなる心のときめきを感じるものであるが、反面、別れる時は何か虚しさ(お互い和解に至る方策はなかったものなのか?という葛藤)を感じる。ちょっとしたすれ違いはSNS特有のもの(顔と顔を付き合わせる通常の付き合いなら修復可能なすれ違いも、お互い顔の見えないSNSでは修復不可能)を感じるのである。

さて、数年間に渡る試行錯誤の末、私は敢えて自分のブログの敷居を下げないスタンスを今日まで貫き続けてきている。デメリット(コメントし難い雰囲気)を百も承知での履行である。これには理由がある。それはブログに於ける倫理の乱れが許容出来ないからである。許容すれば乱れが生じ、言いたい放題、書きたい放題のブログとなってくる。そのようにしないのは己のブログを死んだ後に残そうと考えている由縁である。然るに今後のブログ運営に於いて私は人を選ぶし、また人からも選ばれる。そして選び選ばれるそのフルイの目は必然的に細かいものとなる。それで結構である。

ところで、世においてモラルほど曖昧な言葉はない。モラルは個人の主観による性質上、百人百様となるものである。私はこの曖昧さを少しでも解消しようと考え、一昨年の夏「論語」による儒教の心を学んだ。論語の中では「礼節なくしての良好な人間関係構築はありえない」という言葉が一番印象に残っている。人と人は分け隔てなく、立場的には平等とわかっていながら、そうなり難いのが世の常である。従って礼節は人の根源となる「個人としての尊重」をお互い認めるものであり、同時に対人関係に於いてはなくてはならないもの(潤滑油)と受け止めている。

しかしながら、世には節度という言葉もある。数年前或る知人から「貴殿は倫理観に厳しいがそれにも限度がある。渓流の水が澄み過ぎると魚が住めなくなる。」との進言を頂いたことがある。何事も節度が肝要ゆえ、これには同感を感ずるものである。私はこれからも儒教の心を中核とし、節度をわきまえながら皆様とともに有意義で楽しいブログライフを享受していきたいと思っている。
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