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明治維新に於いて注目度の高い人物と言えばなんと言っても吉田松蔭や坂本龍馬、高杉晋作、西郷隆盛あたりが挙げられる。幕府側の人物では勝海舟、土方歳三と言ったところが人気どころゆえ、同じ幕府側の榎本武揚はどうしても隠れがちになる。ところがどっこい、私は旧幕臣ながら多くの軋轢と戦い、政治家となって明治の世を強かに生きた榎本武揚が殊の他好きである。

彼が宮城県松島湾東名浜寒風沢に艦隊を率いて立ち寄ってから、そろそろ150年が過ぎようとしている。また、折しもブロ友の万華鏡様から北海道江差に彼が乗った開陽丸のレプリカ船が繋留されているとの情報を頂いた。彼が塩釜港に土地寄ったのは1868年夏のことであった。きょうは仙台藩寒風沢(現塩釜市)から榎本と開陽丸がたどった運命を、仙台藩額兵隊を率いた星恂太郎の横顔を交えてダイジェストで紹介したい。尚、万華鏡様には今回の記事の執筆に関して、大いなるモチベーションを頂戴した由、誌面を借りて厚く御礼申し上げる所存である。

以下鈴木常夫著「北海道に渡った仙台藩士たち」とWikipedhiaから引用の上、ミックが双方の折り合わない部分を考察しながら編集

開陽丸は幕末期に江戸幕府が所有していた木造シップ型軍艦排水量2590t、長さ約73m、幅約13m、高さ約45m、補助蒸気機関出力410馬力、備砲は当時最新鋭のクルップ砲を含む26、1863年オランダのドルドヒトゾーネンコ造船所建造され2年後の1865年に進水)である。

榎本艦隊のたどった変遷

1、開陽丸は1867年神戸港に入港し鳥羽伏見の戦い(1868年1月3日から6日まで、長州や薩摩の官軍と、新選組を含む旧幕府軍が戦った戦い)に駆り出さる。この戦いに敗れた徳川慶喜(15代将軍)や会津藩主、松平容保らを乗せ、その後江戸に向かった。
    ※品川沖に集結し仙台藩に向かう榎本艦隊


2、1868年8月28日、榎本艦隊率いる開陽丸(主艦)、回天、長鯨丸などを伴い松島湾東名浜の寒風沢に着岸する。(仙台藩の藩船宮城丸の誘導による)

3、この時仙台藩は戊辰戦争で降伏寸前であったが、幕府側として榎本艦隊に出来る限りの援助(約二百人が昼夜を問わず傷んだ船の修理にあたり、食料や水の補給をした。)を行った。かくして、同港には1ヶ月半の繋留となった。

4、1868年末、9隻の船に旧幕臣の大鳥圭介、新選組の土方歳三、旧幕府軍軍事顧問であるブリュネ(フランス人)を始め仙台藩星恂太郎率いる額兵隊(二百五十余人)、仙台藩脱藩者を含めた二千八百余人(資料によって人数は異なる)の者が乗船し、1868年10月9日追ってきた新政府軍を逃れるように松島湾を出港。

額兵隊:星恂太郎を司令とする八百余人からなる洋式軍隊。仙台藩降伏後は、榎本武揚の下に入って函館五稜郭の戦いに参加した。

星恂太郎(1840~1876)仙台東照宮宮司、星道栄の子として生まれる。生来の潔癖さと喧嘩っ早さのため家業は継げぬと判断され藩の台所人、小島家に養子に出されるが包丁を握るのを嫌がり生家に逃げ帰り武芸に励む。青年期は尊皇攘夷を唱える過激派であったが、仙台藩の開国派の家老但木土佐の暗殺に失敗し逆に攘夷、暗殺の愚かさを説かれ、考えを改める。その後脱藩し江戸で洋式兵学を学び、横浜ではアメリカ人貿易商ウェン・リード商会に勤め、語学や諸外国の知識などを身に付けた。1868年、脱藩の罪を許された星は仙台に戻り、30歳未満の藩士の次男、三男で構成される額兵隊の隊長に抜擢される。
榎本武揚

星恂太郎


5、10月9日、間もなく牡鹿半島の折浜(現石巻市)に着岸し、三日後の10月12日再び出港。この後、船団の中の一部は気仙沼や唐桑(宮城県本吉町)や三陸に寄港して各地を荒らし回ったとされる。(幕府軍敗戦による戦意喪失か?)
     ※北海道に向かう幕府軍兵士


6、蝦夷地函館近くの鷺ノ木に1868年10月19日に上陸。

7、同年10月26日、函館五稜郭を占領し11月1日に榎本武揚が入城する。

8、同年11月15日、嵐のため開陽丸が座礁、喪失に至る。

9、1869年2月~5月、戦況が新政府軍に大きく傾く中、榎本は奇襲を敢行するなどして抗戦し続けたが、ガトリング砲の集中砲火を浴びるなどして自軍兵士が逃亡し、5月17日新政府軍に降伏する。この後、榎本は囚われの身となるが新政府軍(薩摩軍)黒田清隆の「敵ながら殺すにはもったいない」との思惑で刑死を免れる。

コメント
彼のその後については本ブログ2015年1月29日更新の「榎本武揚に学ぶ負けても生き残る術」に詳しく書いているゆえ、興味のあるかたはご覧頂きたい

彼は下級武士の出身で立身出世をするには学問を身につけ、努力をするしかなかった。彼は武士として儒学を幼少時に学んだが、長崎海軍伝習所で航海に必要な学問を修めた。その後オランダに留学をして政治、経済、国際法、ヨーロッパ文化、農業、工業などを広く学んだほか、四カ国語の外国語を身に付けるなど、無類の勉強家、努力家でもあった。

彼がこの時、宮城県に立ち寄ったのは一ヶ月半である。上官と仕官という間柄であった総司令官榎本と額兵隊隊長の星恂太郎(星が四つ年下)とが、この時どのような会話を交わしたのか非常に興味深いものがある。戊辰戦争が終わり、明治の世に入ると二人は謹慎を経て北海道開拓を言い渡された。北海道に渡った幕府側の人物の多くが力つき、世を去っていく中で、榎本は稀有なる能力をもって新政府側に受け入れられ、その後大臣、子爵にまで出世した人物であった。

これに対して星は製塩場経営に携わったが経営に失敗し、免職され仙台に戻り満36歳で病死している。72歳まで生きた榎本とは対照的な生き様を感じるようだが、これは単なる結果論に過ぎないのかも知れない。人は生き残ろうとするか投げやりになるかでその後に大きな違いをもたらすのは当然だが、例え生き残ろうとする意志があってもその成就には運不運がつきまとう。特に、彼ら二人は旧幕臣であったゆえ、明治時代に生き残るには大変なアゲインストがあったのでないだろうか?私は榎本には実力の他に運もあった(黒田清隆に気に入られた)と受け止めている。
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