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亘理伊達家廟所を訪ねる小旅
年度末ゆえ、有給休暇の消化をすることにした。春分の日を迎え、私はJR常磐線に乗って間もなく己の居住の地となる宮城県南部の亘理町を目指した。駅から歩くこと30分。如何にも古そうで格式のある山門が私の目を捉えた。大雄寺である。大雄寺には伊達成実公を始めとした亘理伊達家が祀られている墓所がある。



google航空写真で位置関係を確認して頂きたい。
ピンク:JR亘理駅
黄色:亘理城
赤:亘理伊達家廟所大雄寺
亘理城と大雄寺は1キロほど離れている。



遠くに太平洋を望める高台。大雄寺にはこのような土塁が残っている。これは中世に於いて亘理地方を治めた武石氏(亘理氏)の居城があったゆえと思われる。(現地の立札にて確認)さすれば武石氏の居城の跡に亘理伊達家代々の廟所が作られたことになる。ここは付近一帯に睨みが利くゆえ、地の利を活かして地方豪族が居城に適した場所として選んだ理由がよくわかる気がした。

また城の東側の斜面は縄文時代中期の泉ケ入遺跡になっている(同じく立札にて確認)ようであった。



亘理伊達家に於ける代々藩主の墓所の位置をご覧頂きたい。初代から12代に渡るまでの当主がここに祀られている。成実公の廟所は左から三番目の屋根のついたところにある。(拡大できます)



伊達政宗公の従兄弟であり、副将格であった成実公の廟所にはこのような囲いが施されている。



近年、復元された伊達成実公廟所



若い時は猛将の異名をとった彼も歳とともに丸くなった。彼はインテリジェンスに溢れた武将でその足跡は「成実日記」に事細かに記されている。数え切れない武功とともに滲み出るような仁徳。伊達成実なくして伊達政宗なし。まさに彼は政宗公の副将と言われるに相応しい優れた人格を供えた人物であった。

(以下ピキシブ百科事典より引用し著者が編集)
伊達成実(1568~1646)
伊達実元(伊達政宗の叔父)の嫡男として生まれる。幼名は時宗丸。仮名は藤五郎。政宗とは従兄弟。政宗や片倉小十郎と兄弟のように育。伊達家中の中でも、殊に武勇に高く、人取橋の戦いでは、奮戦して伊達政宗を逃がし、郡山合戦や摺上原合戦では、宿敵蘆名軍と渡り合う。また権謀術数と言われた智将大内定綱を調略して伊達軍に服属させなど武勲のみでなく、交渉術に於いても抜群の采配を見せる


筆頭家老を石川昭光に奪われたことへの不満か、一時の出奔を経て数年音信不通となるも、関ヶ原の戦いが起きた同年になって再び伊達に帰参する。1603年からは亘理城に入城し、その後伊達家中にて数々の大役を担う。戦国武将に於いて享年満78歳は異例とも言える長命であった。子孫は仙台藩内では分家の重鎮となり、明治維新後は北海道の開拓などで地名に「伊達」を残す。





極彩色の化粧を施され往時の面影を取り戻したのは平成に入ってからと聞き及んだ。名君には名将がつくとよく言われるが、戦国の風雲児であった伊達政宗公を支えた功績は極めて大きい。彼は亘理町民のみならず宮城県人にとって英雄である。大雄寺は長きに渡って亘理伊達家を見守ってきた。圧倒的な存在感を放つこの廟所は、まさに伊達の副将の名に相応しい威光を感じるものである。

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