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吉田松陰が遊歩した東北2


・江戸では桶町の河岸の鳥山信三郎宅に身を寄せた。

・嘉永5年4月18日:松蔭、足軽二人に護送され江戸を去る。

・同年5月12日:萩に到着。室に幽閉さえ藩の沙汰を待つ。

・同年12月8日:士籍を剥奪され、家禄没収の沙汰が下る。但し松蔭は父百合之助の育み(預かり)となり、長州藩に仕える身は留保された。同時に長州藩主・毛利慶親から百合之助を通して、松蔭の十年間に渡る諸国遊学の許可を申し出るよう命が下った。表面的には厳しい沙汰だったが、藩は松蔭の学者としての抜きん出た裁量を見抜いた末の温情的な措置だったのかも知れない。翌年の嘉永6年(1853年)1月28日、松蔭は諸国遊学を果たす為、再び萩を出立した。


横町挨拶

今回は字数制限に引っかかり二度に分けてのの更新となり、大変申し訳ございません。今回の著作を読み、人はここまで俗を捨て理想(攘夷思想)に生きれるのか?という驚きを感じました。松蔭としては経済的には兄からの仕送りだけが頼りだったわけですが、その金を無駄にすることは殆どなかった。ここが凄いところです。とても自分には真似できそうにありませんが、ここが松蔭たる所以を感じました。ところで読者の皆さんは安芸五蔵江帾五郎)の仇討ちが実現したのか、気になるかたもおられるかと存じますが、敵の失脚で頓挫したようです。最もこれには敵が病死するのを待っていただけという別な説もございますが、真実は定かでありません。


嘉永5年3月16日、石巻で粟野杢右衛門宅を訪れた際、松蔭がどんな会話を交わしたのかについては、自分が知る限りでは一切記録に残ってないようです。彼が多く滞在した地域は話し合うに価する人物が居たことも挙げられる気が致しますが、或いは松蔭は粟野を始めとした石巻在住の人物とはあまり話し合う必要を感じなかったのかも知れません。狙いである松前(蝦夷地)行きは断念しましたが、最西端の佐渡や青森の津軽半島に足を伸ばしたことは、こうした地域こそが攘敵(外国の敵)の出没の状況を見るのに相応しいと感じたことによると解釈しています。


自分はこのような思想家は幕末だから生まれたと考えています。人類が歩んできた歴史を長い目で捉えれば、数え切れないほどの栄枯盛衰を繰り返してきました。現代は飽食の時代ですが、けしてこのような思想(私情を捨て去り公儀に生きる)を持つ人間は出てこない。ゆえに松蔭には限りない魅力を感じます。彼の東北遊日記を読み少しは人間らしい弱みを露呈するか?という期待もございましたが、その期待は見事に外れました。歴史にたらればはありませんが、彼が明治時代まで生きていたらどんな人生を送ったのか大変気になります。恐らく近代日本を背負って立つ人物になったものと推察しています。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。



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