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桃の節句の風情を一足先に楽しむ
以下、三原良吉「宮城の郷土史話」より抜粋
宮城県に塩釜なる港町がある。その存在は平安時代に既に京都に知れ渡っていた。在原業平は『伊勢物語』で「わがみかど六十余国の中に塩釜という所に似た所なかりけり」と絶賛している。但しこの句を詠んだ本人は塩釜に来たことがなかったという。

       ※在原(825~880)

(コトババンクより引用)
平安時代初期の貴族歌人。平城天皇の孫。贈一品阿保親王の五男。官位は従四位上蔵人頭右近衛権中将。六歌仙三十六歌仙の一人。

現代の解釈で在原業平は再従兄弟である源融(みなもとのとおる)から伝え聞いた話を句に詠んだと推測されている。この源融こそ、名勝塩釜の名を西国に著名にしたらしめた人物とされているのである。

       ※源融822895

(世界大百科辞典第2版より引用、抜粋)

平安初期の公卿。嵯峨天皇第8皇子後に河原左大臣と称される。母大原全子。巨富により河原院や嵯峨の山荘棲霞観などを営み豪奢な生活を送った。歌人としても知られる。大鏡には彼の皇位への野心伝えられる。河原院は宇多上皇の領となった。【黒板伸夫】
融の邸宅河原院はその景観が賞され当時の詩歌にしばしば詠じられている。


融の死後、彼の創った大庭園、京都六条河原を偲んで紀貫之が創った歌がある。(古今和歌集より)
「河原のおほいまうち君の身まかりて後、かの家にまかりけるに」
「塩釜といふ所のさまをつくりけるを見てよめる。君まで烟たえにし塩釜のうら寂しくも見えわたるかな」
この河原院の跡は現在は東本願寺別荘「渉成園」に当ると言われている。

       ※紀貫之(868頃~945頃)

平安時代前期の歌人。『土佐日記』の作者。三十六歌仙の一人。望行の子。御書所預大内記加賀介土佐守などを経て従五位上木工権頭にいたる。若くして『寛平御時后宮歌合』(889頃)『是貞親王家歌合』(893)に列し(905)年『古今和歌集』の撰者に任じられる。

私は郷里宮城県を深く愛している。それゆえ塩釜をもっともっと知りたい。そのような観点に立ち、本日私が参加したのはJR東日本本塩釜駅企画である「塩竈ひな巡り」である。集合時間は10時、少し早く到着した私はいつものように好奇心の赴くままに付近を探索し、時間を潰した。

本日のスケジュールをご覧頂きたい。アバウトに言えば塩釜に根差した老舗と名家、塩釜という名の起こりとなった御釜神社の訪問である。

最初に向かったのは大田興八郎商店(創業1845年)である。この店は味噌、醤油醸造元で昭和4年に建てられた店舗つき住宅は「塩竈市文化景観賞」を受賞しているとのことであった。

大田興八郎商店に展示されていたひな人形。お内裏様とお姫様の後ろにある屏風にご注目頂きたい。松といい、海といい往時の塩釜を彷彿させる風情が印象に残った。

※但し、屏風で描かれた場所が塩釜なのかどうかはわからないとのこと。

次に道路を隔てた向かい側の老舗茶屋「丹六園」は銘菓『志ほがま』の製造元でもある。創業は1720年である。

この建物はこの界隈で最も古い建物であるゆえ、有形文化財に登録されている。

次に訪れたのは旧亀井邸である。旧亀井邸は大正ロマンを現在に伝える建物である。
内容は本ブログの「大正ロマン」で過去に二度取り上げているゆえ割愛する。

これは1887年(明治20年)創業の萩原醸造である。今回紹介した老舗の中ではもっとも新しい建物である。

この建物は1993年に文化景観賞を受賞している。

この後、御釜神社に立ち寄った。

御釜神社は塩釜という地名の由来となった神社とのことであった。

昼食の場所となったのがこの魚屋兼料亭である「松野」である。

ちらし寿司と季節のもの。値段は税込¥2,000である。

この後、熊久商店に立ち寄り解散となった。今年初めてのJR小さな旅は桃の節句を前にしてそれに相応しい開催と相成った。次回は3月21日の「名取熊野三社」巡りである。JR小さな旅は毎回充実しているゆえ、今から大いに期待している。
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