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前書き
最近、織田久氏の著物を読んだ。「『嘉永五年東北吉田松陰東北遊日記』抄」である。織田久氏と言えばつい先日読んだ「江戸の極楽とんぼ『筆魔可勢』ーある旅芸人の記録」の著者でもある。織田久氏のプロフィールについて、著物から引用したい。織田久:1934年生まれ。早稲田大学美術史学科卒。日本読書新聞を経て無所属編集者。著書に『広告百年史』(明治篇・大正昭和篇)、『江戸の極楽とんぼ』(無明舎出版)がある。と書かれているが、自分が知る限りでインターネット上で得られる情報は殆どなかった。

存命なら今年で84歳となられるが、東北に関することを書かれているので、或いは東北出身なのかも知れない。(どなたか織田久氏についての情報をお持ちのかたが居られればお寄せください)ところで、今回の読書の大きな動機となったのはブロ友のつや姫日記様の一言(吉田松陰が東北を遊歩した際、庄内の酒田を通ったとのご教示)であった。この場を借りて、つや姫日記様には深く感謝を申し上げたい。

吉田松陰が22歳(満年齢)の頃、東北地方を周遊した目的は何だったのか?これについては大きく三つある。一つ目は佐久間象山の下で学んだ兵学的見地を深めること、二つ目は日本の国防における軍事施設を見て廻ること、三つ目は往時脅威とされた外国船の往来する北限の地北海道、津軽)の視察であった。彼はれっきとした長州藩の士族ゆえ、諸国を見て廻るには藩(長州)の許可が必要だった。


藩からは内諾を得たものの、正式な許可が出ないうちの出立(フライング)であり、これが脱藩者として後の彼にのしかかることとなった。思い立ったら即行動、これは陽明学的な考えを重んずる彼の志向の表れだが、その行動力の裏づけとなるのは倒幕攘夷(幕府を倒して異国を駆逐する)という思想であった。リスクを覚悟の旅立ちに松蔭らしさを感じる気がする。

東北遊日記』の中で自分が最も感心があったのは郷里・石巻との関わりである。この目的を果たす為に滝沢洋介著『吉田松陰の東北紀行』も読んだが、この点は後で述べることにして、織田久氏著の『嘉永五年東北』に基づき、嘉永4年~嘉永5年(1852年~1852年)に於ける松蔭の足跡を振り返りたい。尚、松蔭が行く先で各地の剣客や有識者と面会できたのは友人の斎藤新太郎(剣客)の添え状があった為である。

滝沢洋介氏著『吉田松陰の東北紀行』10頁より引用

※以下の月日は全て陰暦である。
※嘉永5年の閏月2月は陰暦ゆえ、この年は13箇月あったことによるものである。

・嘉永4年(1851年)7月17日:松陰、藩に旅行願いを提出、6日後の23日に許可が下りる。旅行の期間は10箇月であった。松陰は旅行に要する資金調達を兄の杉梅太郎に頼った。出立に先立ち問題が発生した。それは旅先で必要となる通行手形が下りないということだった。理由は藩主不在の為で待てば下りたはずの通行手形を待たずして松陰は奥州に向かう覚悟を決めた。これは同行者の宮部鼎蔵(1820~1864・熊本藩士・後の池田屋襲撃事件で新選組の襲撃を受け自刃する)らとの約束を果たす為でもあった。

・同12月14日:吉田松陰、通行手形未所持のまま(脱藩亡命扱い)東北を目指して江戸桜田門外毛利藩邸を後にする。宮部鼎蔵ともう一人の同行者である安芸五蔵(1827~1879・本名は江帾五郎、通称は那珂梧楼・南部浪人、兄春庵の仇討ちを決意し、南部藩参勤交代時に本懐を遂げる為、各地に潜伏)とは水戸で落ち合う約束であった。昼過ぎに日本橋~千住橋~千住の宿へ。ここで道は二手に分かれるが、松蔭は水戸街道を選ぶ。水田や葦原が広がる地帯を歩いた。川舟がひっきりなしに通った地点と思われる。この後、綾瀬川の橋~金町~江戸川~松戸宿へ。この日松戸宿に泊まらなかったのは追手を逃れる為だったと推察される。この日は本郷村の本福寺(筆者は現松戸警察署の辺りと推定)に宿泊する。

・同12月15日:水街道に至る脇道に進路を取る。小金原~手賀沼近く~花井~船戸の各村を通って利根川を渡る。水街道の駅に到着し宿泊(行程は8里)

・同12月16日:筑波山に向かう。日のあるうちに筑波駅に到着(行程は7里)

・同12月19日:水戸に入る。水戸では艮斎安積祐助(儒者)らと会う。水戸では勉学の席に積極的に足を運ぶなど向学心旺盛な様子を見せている。ちなみに松陰が花街などの遊興施設に足を運んだ形跡は日記を見る限りでは全く見当たらないという。ストイックとも言える一貫した松蔭の生き様は「私を殺し、公に生きる」という士族として目指すべき理念と覚悟を感じる気がする。

松陰は水戸で剣客の永井政助と息子の芳之助とも会っている。松陰は芳之助のことを志気精鋭甚だ恐るべしと述べ一目を置いたようだ。その後、『新論』や『高山彦九郎伝』の著者会沢正志斎宅を六度訪問したりするなど、貪欲なまでの思想吸収意欲を示している。会沢は70歳にも関わらず矍鑠とした応対ぶりだったと松陰は日記に書いている。松陰は12月24日に鳥山信三郎(儒者1819~1857)の私塾(梁山泊)で、宮部鼎蔵安芸五蔵と落ち合い、その後永井政助宅に投宿した。

・嘉永5年(1852年)1月4日:松陰ら三人は水戸を出立(水戸藩内部の偵察と思われる)し、大洗を経て古奈地村に一泊する。

・同1月5日:長い海岸線(九十九里浜)を歩いて鹿島に到着。行程は8里であった。(この日は鹿島に投宿)

・同1月6日:鹿島神宮に参拝、鰐川から舟に乗って潮来に渡り、宮本庄一郎宅に止宿。松陰は兄の梅太郎に手紙を書き感謝の気持ちを表した。

・同1月7日:宮本庄一郎宅を後にする。利根川を舟で下り、夜になって松岸に到着。

・同1月8日:高台に登って港を見下ろす。港には数隻の商船と街には妓楼が軒を並べていた。松陰はアメリカの胸ぐそが悪いという意味の詩を詠んだ。その後三人で酒を喰らい、酒を飲んで大声で歌ったという。(但し松陰は酒が少ししか飲めなかったらしい)

・同1月20日:遂に水戸を離れる。永井芳之助が青柳の渡しまで見送る。この後菅谷~久慈川~森山に至る。(この日は森山に投宿)

・同1月21日:森山~陸前浜街道経由~手綱(現高萩市高戸)に至る。

・同1月22日:阿久津彦五郎宅を訪問。龍子山記を見せてもらう。その後阿久津彦五郎の案内で赤浜の長久保赤水の墓を詣でる。(この日は彦五郎宅の紹介で礎原の野口源七の家に投宿した。)

・同1月23日:台場に登る。大砲のない無防備な港を見て失念する。イギリスでは19世紀の初頭から、この地に絶好の鯨の漁場が存在することを知っていて、捕鯨船が頻繁に出没していた。午後になって勿来の関を過ぎ、いよいよ東北に入った。

・同1月25日:鎌田~仙石~石川~赤羽~白川へ。この日は植田で一泊。

・同1月26日:御斎所街道~白河へ。松蔭は白河は奥州諸侯が参勤交代で必ず通る地(関所がある)で、市塵繁盛なりと語っている。松蔭は白河に三日滞在したが、面会した兵学者、剣客の口から出るのは俗談のみで失望したようだ。

・同1月27日:三人(松蔭、安芸、宮部)で一日酒を飲む。実はこの日は兄の仇討ち目指す安芸(本名:江帾五郎)と別れなければならない日であった。お家騒動に巻き込まれ獄中で死んだ安芸の兄だが、毒殺か自殺か、真実は闇に包まれたままだった。南部(現岩手県)を目指す安芸を松蔭と宮部は見送った。この後二人は会津に向かった。

・同1月28日:白河から7里行った勢至堂峠の宿駅に投宿する。

・同1月29日:勢至堂峠を越える。この後、原~赤井~滝沢(小山峠)を行く。ここからは会津城下が一望できた。会津は徳川と血縁関係にあり、天下に比類なしと言われた会津藩の好学尚武の藩風に松蔭は触れてみたかったのだろう。ちなみに羽織の紐の色や襟の色で等級が分かれるほど会津藩の規律統制は厳しかったという。これは他藩ではけして見られないものである。
会津では藩老の高津平蔵や軍事奉行の広川勝助、西郷十郎右衛門らと面会し親交を深めている。統制の取れた武家組織を持つ会津の兵力は相当なものだったが、このこおとが薩長に恨まれる原因となったのは皮肉と言えるのかも知れない。

・同2月6日:北陸を目指して会津を出立。この日は会津坂下塔寺に止宿。

・同2月7日:車峠、鳥井峠を越える。

・同2月8日:豪雪の中を進むが甚だ難儀する。この日は綱木に宿泊。

・同2月9日:この日も深い雪に苦しむ。

・同2月10日:いよいよ新潟に入る。日野三九郎(代々医者を務めるとともに学塾を開く)宅に宿泊。

・同2月11日:日野に連れられ中川立庵、東庵親子(日野と同業)に会う。松蔭の不快教養が「知の回廊」として結びついた対面であった。江戸時代の遊学は各地に点在するサロンをたどるもので、外界からの新風を感ずることのできる数少ない空間だったのでは?と筆者は述べている。

・同2月13日:松蔭、佐渡に渡る決心をする。

・同2月14日:新潟を出立。内野~赤塚~稲島~岩室へ行く。この日は岩室に宿泊。

・同2月15日:岩室~石瀬を経て弥彦神社参拝~猿坂~野積~寺泊~出雲崎へ行く(行程は8里)

・同2月16日~2月27日:佐渡への舟を待つが、悪天候の為出雲崎で足止めを食う。

・同2月28日:佐渡に渡る。

・同2月29日:松蔭、相川の高台にある奉行所を訪れる。広間役(島の実情を最も詳しく知る立場)の蔵田太中に会う。佐渡は三郡261箇村から成り人工10万余、歳入は13万石であるという。松蔭はここで飛島(庄内)でも異国船の目撃があったことを知る。その後寒風沢の金山にも行ったが鉱夫の過酷な労働状況(塵肺などの病を患い40歳を過ぎるものは殆どいない)に驚いた。各地からの島流しがこうした労役についていたようだ。

・同閏2月3日:小木(佐渡島の港)へ戻る。

・同閏2月10日:舟で出雲崎へ到着~再び新潟へ。

・同閏2月18日:新潟を出立し藤塚に宿泊。舟が見つからず、今後は陸路をたどる決意をする。

・同閏2月19日:平沙~桃崎~荒川を舟で渡る~塩屋町~又平沙~岩舟~瀬波川を舟で渡る~猿沢~塩町へ。塩町に投宿。この時の塩町の積雪は4尺で行程は11里。

・同閏2月20日:塩町~葡萄峠へ(大雪に悩まされる)この時詠んだ詩には松蔭の「俺は何をやっているのだ…」というぼやきが感じられる。

・同閏2月21日:羽州田川郡へ入る。庄内候の関所である鼠関(ねずみがせき)~浜熱海(鶴岡)~三瀬~碁石~田間~大山へ。大山に投宿する。(行程は11里)

・同閏2月22日:酒井備中守の城址の脇を通過して最上川へ。浜中駅から川を渡る。川幅は6町(約650メートル)であった。(現在の浜中は小河川の赤川に面しているゆえ、この日記の浜中は宮野浦の間違いか?)酒田に着く。戸数は6千ほどで川には大船が停泊し、新潟以北で最も繁盛の地という印象を受けた。鳥海山を見ながら川(新井田川か?)を渡り吹浦(ふくら:現遊佐町)に到着する。この日の行程は12里(吹浦に投宿)

・同閏2月23日:女鹿(関所)を過ぎ海を見ると飛島が見える。海沿い(現国道7号線辺り)を進む。小砂川~塩越~象潟~平沢~本荘へ。本荘に投宿する。(行程は13里半)松陰は庄内地方特有のハンコタナ(女性の被りもの)に珍しい印象を受けたようだ。

・同閏2月24日:本荘~久保田(秋田)へ新谷から舟で雄物川を渡る。往時の羽州街道の殆どは砂浜であった。久保田城下には夕刻に入る。(久保田に投宿)

・同閏2月25日:2900石の家臣・渋谷内膳厚光(あつみつ)の家臣・熊谷恒次と会い、国事について話を交わす。松蔭内膳との面会がかなわず、松蔭はむっとした。久保田藩は20年前の天保の飢饉ですっかり疲弊し、松陰が訪れたこの時まで惨状が継続していた(餓死したり病死したりした者は5万数千と推定される)はずだが、松陰は国内困窮の印象をさほど受けなかったようだ。

・同閏2月26日:久保田城下を出立~土崎湊~北へ向かう。

・同閏2月27日:八郎潟と米代川に挟まれた辺りを行く。雪解け水で道路はかなりぬかるんでいたと見られる。豊岡~桧山~鶴形~飛根~米代川を渡って~荷上場~小川~籠山~阿仁坑~小綱木へ。小綱木(小繋)に宿泊。

・同閏2月28日:大館~白沢へ。庄屋の山内儀兵衛宅に宿泊。

・同閏2月29日:国境の矢立峠~碇ヶ関(関所)~弘前へ。弘前に二泊する。弘前では津軽藩士・伊東広之進と会い、北辺の海防事情を聞く。

・同3月2日:出立の朝に伊東広之進宅に挨拶に訪れると、他の藩士も来て別辞を述べ、松陰と話し込む。この為、出立は午後4時頃となる。行程は1里のみで藤崎に宿泊。

・同3月3日:五所川原~金木~中里へ。

・同3月4日:相内と十三湖の西畔~北畔を通り海岸線へ~磯松~脇元(絶壁が多く難所が続く)~算用師峠(眺望が素晴らしい)~三厩~今別~大迫~上月(袰月と思われる)上月に投宿。上月の戸数は僅かに17~18戸であった。

・同3月5日:上月~平舘へ。平舘には昼過ぎに入る。平舘には北方警備の為の津軽藩の砲台があったが、とても異国船を相手に砲撃できる代物ではなかった。松陰は宮部とともに失望したと思われる。この後二矢村(現蟹田町塩越と思われる)から夜舟(魚を運ぶ船)に乗った。(舟の中で仮眠)

・同3月6日:早暁の青森に着く。朝食を済ませ、陸奥湾を東に向かう。中野~藤沢~小湊~夏泊半島~清水川~狩場沢(藩堺)~野辺地へ。

・同3月7日:野辺地に宿泊。野辺地の戸数は300ほどで、かつては御用銅と御用大豆の出荷で栄えた古くからの港であった。同時に北方警備では一拠点と見なされた場所でもあった。

・同3月8日:野辺地を出立し内陸部へ、ただ平原あるのみで荒漠たる中を4里行き七戸に至る。更に寂寥たる裸地を歩き五戸へ至る。途中熊狩りの漁師に会い話を交わす。五戸は天保の飢饉の影響で人口が半減、五戸では藤田武吉(農業を営む下級武士か?)と会う。藤田から松陰は馬の放牧場の話を聞いた。

・同3月10日:沼宮内~川口村へ岩鷲山(岩手山)が右手に見えたと思われる。

・同3月11日:盛岡に至る。盛岡はで安芸五蔵(兄の仇討を狙う南部浪人・本名は江帾五郎)の家族宅(盛岡近郊の村と思われる)を訪ね、五郎の近況を老母に伝えた。江帾春庵(五郎の兄)の仮埋葬所を訪れたが、板塀で厳重に囲われていて、これが松陰と宮部の悲壮感を一層誘った。

・同3月12日:午後3時頃、盛岡を出立~津志田(現盛岡南部)~郡山(現紫波町)へ。郡山に投宿。行程は5里。松陰は藩札の発行を豪商に任せる南部藩の主体性を疑った。

・同3月13日:郡山(現岩手県紫波町)~花巻~黒沢尻へ。黒沢尻(現岩手県北上市)に宿泊。

・同3月14日:黒沢尻~中尊寺に詣で~一関へ。一関に宿泊。

・同3月15日:登米(現宮城県登米市)へ。

・同3月16日:石巻に宿泊仙台藩士・粟野杢右衛門宅)し、粟野の案内で港などを見て廻る。松蔭はその時の石巻の様子を「道路は四通八達し、旁径(枝道)多岐なり」と語っている。この時の石巻には妓楼があったが彼の眼中にはなかったことだろう。

・同3月17日:石巻~鳴瀬川を舟で渡り~富山(現宮城県松島町手樽)~松島~舟で~塩釜へ。塩釜に宿泊。

・同3月18日~21日:仙台に滞在。仙台では養賢堂(仙台藩藩校)学頭の大槻格次らに会い会談を交わした。

・同3月21日:仙台を出立し中田(仙台市南部)に一泊。

・同3月22日:奥州街道を阿武隈川沿いに進む。道(岩沼辺りか)にて安芸五蔵と落ち合う。三人(松陰、宮部、安芸)は白石(宮城県南部)に宿泊。

・同3月23日:白石を出立した三人は七ヶ宿街道(現国道113号線)を行く。途中の小原村の温泉で入浴する。この日は4里歩いたのみで戸沢に宿泊。夜は浄瑠璃を招き、忠臣蔵などを語ってもらい涙する。

・同3月24日:再び浄瑠璃を呼ぶ。午後二時過ぎに安芸五蔵と別れる。

・同3月24日:戸沢を出立。

・この後、米沢~会津~田島~日光~足利~館林を経て4月5日に江戸橋下に着く(事実上の東北遊歩の終着を意味する)
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コメント

No title

こんばんは

いつも散歩する日和山公園に文学の散歩道というコースがあります。
そこで確かに「吉田松陰」の石碑を見ていたのでした。
酒田にも松蔭は来ていたのだ。。。

その石碑には横町さんのお調べの通りのことが書かれています。てっきり石巻のほうが先かと思っていましたが
新潟 佐渡にいきそれから北上していたんですね。

松蔭の人生も短いですが
東北の地を見て回られたという驚きがありますね。

URL | つや姫日記 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

今晩は

吉田松陰さんの足跡を書かれた書物に出会えたのは

横町さんにとって 嬉しい出会いなのでしょうね

ブロ友さんに感謝ですね
ナイス☆

URL | 62まき ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

> つや姫日記さん
残念ながら鶴岡と酒田の市街地は素通りでしたが、最上川や町の様子が記されており大変興味深いものを感じました。そう言えば
❶童門冬二著『最上川流域に庄内米と大名をしのぐ日本海文化』https://blogs.yahoo.co.jp/bgytw146/34017871.html
❷童門冬二著『本間さまの経済再生の法則』https://blogs.yahoo.co.jp/bgytw146/35031598.html
も姫のお陰で読本し、記事にすることが出来ました。改めまして、「知の回廊」に深く感謝しております。

自分はこれを足場として松蔭の生き様や松蔭に関わった人物に興味を波及して参りたい所存です。
本日も慈悲を賜りました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

> 62まきさん
出来れば石巻での松蔭のことをもっと知りたかったですが、殆ど書かれてないということは、基になる資料が少ないということだと解釈しています。それでも鍵を握る人物(仙台藩士・粟野杢右衛門)がわかったので、仙台市図書館で調べたい所存です。これが新たな執筆に繋がればと考えています。

本日も厚誼を頂戴しました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

こんばんは 横町さん

更新お疲れ様です

織田久氏、吉田松陰の東北への旅をこのように克明に記されるには、膨大な資料を集められ作業をされたのでしょうね。
このように克明に記された書。
吉田松陰に惹かれる方々にはお宝とも言える1冊でしょう。
昔人の旅は過酷ですね。
それだけの情熱と好奇心がないとできない大業だと思わされます。
横町さんは東北の地を歩む吉田松陰を想像しながら、胸を膨らませ読み進められたと思います。

URL | ヤスミン ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

4ヶ月にもわたる松蔭の東北旅行、知りませんでした…。
貴兄の故郷石巻に関する記載が少ないというのは、残念でしたね…。。。

URL | boubou ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

> ヤスミンさん
本を読み進めて行くうちに考えが変わって参りました。当初は松蔭と東北の関わりについて知ればいい…程度のものでしたが、徐々に吉田松陰の志の尊さに心打たれた気が致します。

人間がここまで献身的に、ストイックになれるものなのか…司馬遼太郎はこのような人物が存在したこと自体を奇跡と述べていますが、その真意をようやく理解できるようになった気が致します。

彼の生き様をそのまま自分に転化することは難しいですが、公(国や藩)を家族に転化することは十分可能と考えています。それだけに大変感銘を受けた今回の読本にございました。

おはからいにより、本日もお励ましを頂戴しました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

> boubouさん
当初の目的は石巻で彼がどういう行動に及んだのかという点でしたが、どうも情報量が少なく、途中から目的を変えました。それは松蔭の生き様の中で純粋さと強さの双璧を知ることです。
幕末という非常時ゆえにこうした人物を輩出したわけで、安閑とした情勢ではけして生まれ出ない真の思想家と認識しております。

自分にとって今回の読本から得たものは大きく、これからの執筆活動の足場の拡幅になると捉えています。本日も厚誼を頂戴しました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

今日は、

吉田松陰の名前は知っていますが東北地方の周遊の際に
当時の士族は藩の許可が必要だったのですか、
外国船の往来する津軽の視察であればどのような展開に
なってたでしょう、

数の少ない記録の中東北遊日記の良い本に出会えましたね、
これを元に新たな執筆への意欲に挑戦してください、

URL | 雲MARU ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

> 雲MARUさん
166年前をごく最近と捉えるか、それともだいぶ前と考えるのかでだいぶニュアンスが異なるものと認識しております。「公儀の為に人間が存在することの意義」これを現代人にいくら説明してもピンと来ないことでしょう。然らば松蔭を思い浮かべれば、想像は難くないものとなります。

自分はこの作品を読んで心底松蔭の生き様に感服しています。本日もお励ましを頂戴しました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

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