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プライドを賭けた名門同士の戦い
  はしがき
4月から相馬転勤が決まった。そのような折、私が次の歴史研究テーマとして掲げたいのは「伊達と相馬の戦い」である。そのきっかけは二年前に遡る。2013年の2月16日に仙台市博物館で行われた仙台市史セミナー「戦国時代後期の伊達と相馬の相克」(講師、東北福祉大学岡田教授)の受講である。時は16世紀の半ば、この時期の伊達と相馬は各々の領土拡大をもくろみ、様々な場所で衝突し合戦が行われた。政略結婚を結んだ後でも両者は激しくしのぎを削った。

※この複雑な婚姻関係をご覧頂きたい。三春藩主田村清顕を通して伊達政宗の正室愛姫と相馬家藩主義胤は従兄妹同士となっている。

米沢に居を構えた頃の伊達は30万石ほど、これに対し相馬は6万石、両者の石高は大きく違うが相馬は伊達に屈することなく平家の血を継ぐ名門のお家柄を存続するに至った。これに対し伊達はその祖を藤原とするものでこれも名門である。従って名門同士がお互いの意地を賭けてぶつかりあったものであった。私はここに尋常でないほどのロマンを感ずるのである。

※左:伊達家家紋「竹に雀」、右:相馬家家紋「繋ぎ馬」

相馬が何故その祖を平家とするのか家系図で確認して頂きたい。
※相馬家家計図その1

※相馬家家系図その2
伊達と争ったのは赤で囲んだ盛胤とその嫡男義胤であった。

私は誇り高き両雄の合戦に改めて脚光を浴びせ、その背景にどんな生臭いドラマがあったのかを皆さんにお伝えしたいと思っている。先ずは伊達相馬の争いを振り返る意味で両国の相克に関する出来事を年表に掲げる。
(参考資料:インターネット「戦国大名探求」、紫桃正隆著「みやぎの戦国時代合戦と群雄」より引用)

※読者諸兄に於かれては史実に関してお気づきの点があったならば遠慮なくご指摘頂きたく申し上げます。

・1542年(天文11)天文の乱(天文11年から同17年までの年間伊達氏当主伊達稙宗と嫡男晴宗父子間の内紛に伴って発生した一連の争乱が起きる。

・1553年(天文22)伊達晴宗(伊達政宗祖父)が懸田城主である懸田俊宗(伊達家臣。陸奥国伊達郡懸田城主。 主君伊達稙宗に加担し伊達晴宗陣営と戦う。)を滅ぼす。

・1564年(永禄7)相馬盛胤、嫡男義胤とともに現宮城県名取郡座流川で伊達晴宗と戦い、伊達勢を多く討ち取る。

・1566年(永禄9)相馬勢、伊具郡金津(現宮城県角田市)、小佐井(現宮城県丸森町小斎)、金山城(丸森町)を攻め落とし手中に入れる。

※金山城跡

・1570年(元亀1)相馬勢、伊具郡丸森城を攻略、落城させる。実質的に相馬が伊具郡を領有。

※丸森城(丸山城跡)

・1576年(天正4)相馬攻撃態勢を固めつつある伊達晴宗、輝宗父子に対して田村清顕が和睦を呼びかけるが和解に至らず。7月矢野目館の戦い(現丸森町)が起き、相馬勢が大勝する。

※矢野目館跡

・1577年(天正5)晴宗が病床につき、一時的に和解が成立。

・1578年(天正6)相馬盛胤が隠居し、嫡男義胤が家督を相続。盛胤は中村城(現福島県相馬市)に入城する。

・1581年(天正9)相馬藩小斎城主、佐藤為信が謀反に及び、伊達に寝返る。同年金山、丸森、矢野目館、駒ヶ嶺小深田で戦いが起こる。

※小斎城跡

・1582年~84年(天正10~12)金山、丸森を巡り両国の激しい攻防が続く。

・1584年(天正12)5月、田村清顕、岩城常隆、佐竹義重らの仲介で両者の和睦が成立。

・1585年(天正13)伊達輝宗が畠山義継(二本松城主)の策略で横死を遂げ、その弔い合戦に相馬義胤が援軍を出す。

・1586年(天正14)田村清顕が死去。伊達と相馬が再び対立を深める。

・1589年(天正17)6月摺上原の戦いで伊達政宗が会津芦名氏を滅ぼす。同年7月相馬義胤が亘理、坂本で伊達勢と戦うが退却を余儀なくされる。

・1590年(天正18)宇多郡大沢合戦で新地城(蓑首城)で相馬勢が敗退。同年5月、相馬盛胤、義胤父子が駒ヶ嶺城を攻めるも敗退する。相馬義胤が玉砕を覚悟で領民500名とともに集結したが、ほぼ同じ頃、豊臣秀吉の小田原城(北条氏)攻め出陣の命が下り、相馬はこれに従う。参陣の後に秀吉から四万八千七百石の所領(宇多、行方、標葉の三郡)を安堵され、相馬氏は滅亡の危機を免れる。

※付近地図、赤:矢野目館、青:小斎城(紫小屋館)、紫:丸山城(西山館)、オレンジ:金山城

  コメント
年表をご覧頂ければわかるが最後の相馬の生き残りは極めて厳しかったと言える。それは豊臣秀吉の北条攻めの出陣命令がなければ相馬は伊達に滅ぼされていたからである。但し歴史にたらればはない。名門相馬はこうして強かに生き残り、今も相馬野馬追い祭りでその誇り高い志に触れることが出来る。

相馬藩は戦国の世にあって武術や馬術鍛錬を怠ることなく、隣国の大藩の伊達に対し、激しい対抗意識を燃やしつつ、強かに生き抜いてきた。私は祖を伊達武者とする身としてライバル相馬には殊の他畏敬を感じている。歴史考証は偏ったものであってはならない。広角的な視点で双方を公平に見定めなければならない。ゆえに相馬図書館にも足を運び、相馬側の文献も調べながら両者の激突した様々なシチュエーションを現地取材を交えてなるべく多く皆様にお伝えしたいと思っている。
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