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 人脈は宝なり
私は今までブログを通じて様々な人物と出逢い切磋琢磨してきた。これは今後もずっと続くことだろうし、私が心より望んでいることである。見聞を深めるのはなにも文献やインターネットだけではない。やはり生身の人間として顔を合わせて有意義な意見交換を交わす(オフ会)のは切磋琢磨への王道と言えるものである。

本日彼と約束した時間は14時半、私はいまだかつて約束時間に遅れたことはない。何故ならば遅れることは相手様への礼節と仁義に背くことになるからである。私は彼との約束を貫くために12時半に宮城野区図書館でビデオ鑑賞し時間を潰した。

こうして、13時40分過ぎにはJR苦竹駅を降り、待ち合わせ場所である東方面に向かった。

曇天の中黙々と目的地に向かう某、新たな出会いへの期待はあるがあくまで己のスタンスは武士道で培われた平常心である。
約束場所は外食チェーン店「まるまつ」、少し約束時間には早いので隣の家電店「ヤマダ電機」で時間を潰した。

彼のブログネームは末永能登守氏。彼は戦国大名葛西家に仕えた家臣末永能登守の末裔である。

   葛西氏
以下風雲戦国史「戦国大名研究」及びwikipediaより引用
葛西氏は桓武平氏で、秩父氏の一族豊島氏の流れである。1180年、葛西清重は源頼朝が石橋山合戦に敗れて安房に逃れて以来、頼朝に属して戦功を挙げ、1189年の奥州藤原氏攻めには、伊達郡阿津賀志山の合戦で先陣となるなど武功を挙げる。それらの功により、葛西五郡、胆沢・江刺・磐井・気仙・牡鹿・本吉・六十六島など、宮城県北部から岩手県南部にわたる広汎な領土を得た。その後、隣接する登米・桃生郡をも併せ、最盛期、その基盤は葛西七郡、三十万石の大身を誇った大名である。第17代当主葛西晴信のときに豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかった事を理由に改易され、1597年晴信の死去で大名としての葛西氏は滅亡。但し、葛西氏の滅亡については異説もあり、晴信は秀吉の奥州平定軍と果敢に戦い、戦死したとも伝わる。

 左:葛西家家紋「三つ柏」、右:伊達家家紋「竹に雀」



末永能登守氏が葛西氏家臣の末裔ならば私は伊達氏家臣末裔ゆえ、殊のほか礼節と仁義は怠ってはならない。彼には失礼のないように丁重に挨拶し会話を交わした。彼は才気煥発にして頭脳明晰、そして青天白日と武士道を併せ持ったような好人物であった。とにかく葛西家に関して詳しい。それだけではない。彼は歴史考証の傍らで歴史小説も執筆中とのことであった。 

「人脈は宝」という言葉があるが、今日ほどそれを感じた日も珍しかった。私は彼に多くの接点を見出し、再会を心に誓いオフ会会場を後にした。
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