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紫桃正隆著「五月闇」読後感想
はしがき
昨年12月29日、私は仙台市宮城野区の国分尼寺を訪ねて、伊達政宗の野望の犠牲となった一人の武将の非業の死(家臣とともに自刃)を知った。そして彼とともに殉じた七人の家臣の存在も知った。武将の名は和賀忠親、和賀家は全盛時は六万八千石余の大身の大名であった。

  ※仙台市宮城野区国分尼寺山門


名門和賀家が南部藩と伊達藩という隣国の大藩の谷間に置かれ、両者の軋轢に巻き込まれてやがては歴史の闇の中に滅び消えてゆく。かつて大身を誇った和賀家が何故滅びることになったのか?本書はこの大きな疑問に答えるものである。先ずは本書の著者である紫桃正隆氏を紹介する。
           紫桃正孝(19212008)



宮城県石巻市生まれ 作家 史家。
受 賞  宮城県教育文化功労賞(平成6年度)
第45回河北文化賞(平成7年度)
著 書 「戦国大名葛西氏家臣団事典」
「みやぎの戦国時代・合戦と群雄」
「政宗をめぐる十人の女」など約40巻



「五月闇」以下BOOKGIDE杜より引用し横町が一部編集
 宮城県河北町在住の作家・郷土史家で河北文化賞受賞者の紫桃正隆が、伊達政宗に滅ぼされた岩手県北上地方の豪族和賀氏の悲劇や、伊達騒動(寛文事件)の真相に迫った「五月闇(さつきやみ)-政宗と和賀一族」を出版した。

 和賀氏は、豊臣秀吉が命じた「小田原参陣」に参加しなかったことから領地を没収され、二十六代当主忠親は、家の再興のため伊達政宗の支配下に入った。慶長五年(1600年)、関ケ原の合戦の余波が東北にも及び、反徳川の上杉方が山形の最上氏を襲った「東北の関ケ原合戦」が起こる。政宗は、山形への応援で国境の警備が手薄になった南部藩領を忠親に侵攻させる。だが、忠親率いる和賀軍は敗退。自らの策略が明らかになることを恐れた政宗は忠親を処刑する。

※画像:命と引き換えに政宗への忠節を遂げようとする和賀忠親(87年NHK大河ドラマ第38話より)のスタンスは山岡荘八「独眼竜政宗」によるものであり、紫桃氏の見方とは見解を異にするものである。



百万石への夢は絶たれたものの、伊達家はこうして生き残った。政宗は秀吉と家康と上手く渡り合い、戦国の世を強かに生きて行ったのである。そんな彼にも挫折はあった。1613年、慶長遣欧使節団を派遣するも折しも徳川家康のキリシタン禁令に逢い野望を絶たれるのである。そして政宗の死後三十年以上たった寛文十一年(1671年)、伊達騒動が起こる。奇しくも当時、専断政治を行っていた伊達兵部は、政宗の子。母の勝女姫は和賀一族の出だった。

※主君、伊達政宗のために殉じた?(或いは殺害された?)和賀忠親と家臣の墓所(2014年12月29日撮影)



著者、紫桃正隆氏は、政宗が国境を侵犯したのは、領土を自ら切り開く「中世的領土理念」(自分の道は自分で切り拓くしかないという思想)を拭いきれずにいたためだと指摘。ここに、自分のことしか信じない伊達政宗の自負心を見て取る。

伊達騒動については、兵部が伊達と和賀一族の間に生まれた子であることを「一種の妖怪である」と表現。「その妖怪が一族の怨念を込め、憎むべき伊達家の内部崩壊、腐食、浸触のために魔の手を伸ばし始める。同氏はこれが『伊達騒動』だったと考えられないか」との見方(伊達騒動の中心人物である伊達兵部は伊達政宗と滅んだ和賀家の家臣(獨沢修理義森)の娘との間に出来た人物であった)を示している。 

書名の「五月闇」は、五月の頃(新暦では7月初旬と思われる)の湿気を含んだ大気の中(ミックは東北地方特有のヤマセと解釈)で迫り来る、暗くて重苦しいのことだという。忠親や政宗や政宗側近の茂庭綱元が死んだとき、周囲はそのようなに包まれていたと著者である紫桃氏は書く。またそのは、歴史を覆う深い闇であるとも暗喩している

読後感想
紫桃氏は国分尼寺で自刃したとされる和賀忠親は伊達のもみ消し工作のため事実上殺された(忠親自刃の際の介錯人は伊達側の人物であった)と語り、彼の家臣七人は伊達の手によって殺戮されたと述べている。折しも天下分け目の関ヶ原の合戦の折、従って伊達政宗の千眼力を以てしても天下の行方を占うのは至難の業と言える。世界史、日本史を問わず歴史に接するとき弱者が強者に滅ぼされる例は無数に存在する。歴史に触れれば触れるほど、これらの出来事は現世への間接的な暗喩であるような気がしてくる。また弱肉強食の掟は如何とも変え難く、改めてその容赦のなさに驚きを感ずるものである。但し、強者と見られる者(伊達政宗)でさえ、更にその上に仰ぎ見る者が存在する。その仰ぎ見る人物こそは天下人、徳川家康である。

歴史に「たられば」はないが、この時に政宗が和賀忠親を用いて南部藩を攻めなければ家康から褒賞として約束の50万石の領土を与えられたのではないだろうか?その暁には伊達藩は加賀100万石を超える110万石の大々身になっていたのかも知れない。伊達政宗がその混乱に乗じて更に領土拡幅を図った気持ちはわからないではないが、梟雄(残忍で強かで荒々しい人物)と言われた彼でさえ、先を読みきれなかったのである。このあたりの見解は紫桃氏との一致を見るものである。多くの歴史研究家は研究を重ねる都度に段々と歴史作家と近い感覚(先祖愛や郷土愛がもたらす思い込み)を持っていくことになるようだ。私も含め、紫桃氏もそんな人物であったと受け止めている。

歴史研究家は史実に没頭するほどに、無意識のうちに自分の思い込みが構築されてゆく。特に人物への思い込みは自分の先祖の関わりが高まれば高まるほど贔屓となって現れる。これは私にも言えることで致し方ないことである。彼が葛西家(鎌倉時代から安土桃山時代にかけて岩手県南部から宮城県北部を支配した大名)の家臣の末裔であれば、私は伊達武者の末裔(高祖父や曽祖父のころ伊達藩の下級武士だったと思われる)であり、それを遡ると岩手県南部に行き当たる可能性がある。(親戚A氏からの情報)従って紫桃氏の著物の研究は私の先祖調べとも重なる可能性があるので殊の他興味を引かれる。

また一週間後の来週土曜日はブログで知り合った葛西氏家臣末裔であるS氏とのオフ会も予定している。S氏も紫桃氏の著物を相当読んでいるゆえ、このオフ会では、それぞれの先祖のことで有意義な情報交換が出来ると踏んでいる。
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