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榎本武揚に見る負けても生き残るテクニック
一昨日NHK Eテレ「知恵泉」でこのような番組が放映された。「だから、生きる」榎本武揚 敗北からの復活劇である。

私は中世史が好きで様々な戦国武将から現代社会で生き残る術を模索してきた。例えば伊達家の家臣となった大内定綱などは数度に渡る寝返りを行ったにも関わらず、伊達政宗に抱えられ、晩年は伊達藩の参謀として君臨した武将である。

但し、今回の舞台は幕末である。今回の主役である榎本武揚は坂本龍馬や高杉晋作、吉田松蔭らと比すとさほど知名度は高くない。これは彼が幕臣であり、負ければ賊軍のレッテルを拭いきれなかったゆえなのかも知れない。しかしながら、私は彼の実力を思い知れば知るほどに、彼の発する圧倒的なベクトル(ハングリー&フロンティア精神)を感ずるのである。

榎本武揚(1836~1908)カイゼル髭と人を射抜くような視線は極めて攻撃的である。但し、彼の凄さは単なる猪武者とは一線を異にするものである。

以下国立国会図書館「近代日本人の肖像」より引用し筆者が編集

幕府御家人下級武士の子として生まれる1856年長崎海軍伝習所に入所。文久1862年から4年間に渡りオランダ留学する。明治元年(1868年)海軍副総裁となる。江戸城開城後、官軍による軍艦の接収を拒否し、函館五稜郭で官軍に抵抗するが降伏。黒田清隆の庇護の下、北海道開発に従事。明治年海軍中将兼駐露公使となり、翌年樺太・千島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て第次伊藤内閣逓相に就任。黒田内閣農商務相・文相、第次山県内閣文相、第1次松方内閣外相等を歴任する

これは彼が12歳で学んだとされる昌平坂学問所である。ここで彼は武士としての基礎となる儒学などについて学んだ。

長崎海軍伝習所時代は航海術、蒸気機関学などの船舶航行に必要な知識を学んだ。
この時、一期上には勝海舟がいた。

ゲスト出演した東京大学、山本博文教授によると彼は下級武士の出身ゆえ、当初から出世が約束されている旗本級の武士と異なり、出世するには留学などの教養を積む必要があったとのことである。

彼はこの留学で先進国の政治、経済、国際法、ヨーロッパ文化、農業、工業などを広く学んだ。また彼は四カ国語の外国語(英語、オランダ語、フランス語、ドイツ語)に通ずるなど文化系、理科系を問わない幅広い学問を身に付けるに至った。彼は努力家であり、秀才中の秀才(希なる切れ者)あったようだ。

※1862年頃オランダ留学の写真、後列中央が榎本武揚。

彼は一時、函館の五稜郭を占拠したいきさつがあった。しかし新政府軍の圧倒的な火力の前に屈することになる。

この時、函館沖での四隻の船の難破が大きな痛手となったのである。

幕府海軍の最高指揮者だった彼はこの戦いで死を覚悟したが、そんな彼を救ったのは敵将である薩摩の総指揮官、黒田清隆であった。榎本は明日の死を覚悟しながら黒田に「海律全書」(洋書訳。それまでの日本になかった海上に於ける国際法)を送った。例え我が身が滅んでもこの著を黒田に託すことで日本の将来に役立てばと考えたのである。

命よりも名著を重んじる榎本の姿勢に黒田が動いた。黒田はこのような優れた人材を殺してはならないと思ったのである。

実力者だった黒田はそんな榎本を重んじ、北海道開拓の総指揮者に任命した。

北海道の開発を担当した榎本はロシアとの列島交渉を任された。そして樺太を手放す代わりに千島列島を我が国の領土とする成果を得たのである。

その後、逓信大臣、外務大臣、文部大臣、農商務大臣と彼は様々な大臣を歴任し。子爵という爵位を賜るに至った。そんな彼だが板垣退助からは「我慢の説」と称し、「忠臣は二君に仕えずというスタンスを貫くべきである。」と告げられた。これは幕府出身の彼への痛烈な批判であった。

彼は武士出身ゆえ、己のことを弁解するより、己の生き様でその生き様を表したようである。武士らしい生き方をする彼に対し、読売新聞の記者がこのような言葉を彼に送っている。「けなされたり、ほめられたりすることは男として避けられないこと ただ一生懸命国のために働いて欲しい」と。

彼はこうして72年に渡る波乱万丈な人生を終えた。番組では敗者となっても生き残こる条件として、
①どんな逆境にあっても諦めないハングリーな心。
②人事を尽くし、自分が必要とされていると思い込む。
を掲げている。私はこのような普遍性を見極めつつ、常に前向きな心をキープし榎本武揚のフロンティア精神を踏まえて現世を歩むつもりでいる。
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