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 エッセイ「燗酒に及んで想う祖父への追憶」
凍てつくような今頃の時節、電車通勤の私にとって唯一の楽しみは一日の仕事を終えた後で燗酒で晩酌することである。但しこの習慣が根付いたのはつい二年前であり、けして昔からの習慣ではない。夏場ならビールや冷酒もいいが今の季節は身も心も芯から温まりたいのである。氷点下の中、駅から夜道を歩き家にたどり着く頃には手足が凍え、マフラーを巻いた背筋もぞくぞくする。頭の中にあるのは一刻も早く風呂に入って燗酒を胃の中に流し込むことである。本能的に燗酒を好むのは私の体内に組み込まれた遺伝子ゆえのことなのかも知れない。

身内の中でこうした晩酌を嗜んだ人物といえば父方祖父である。私の記憶によると祖父は365日、酒を嗜んでいた。但し、この時の祖父が何を酒の肴にしていたのか?或いは何を考えながら晩酌していたのかはわからない。もちろん当時の私は幼かったゆえ、祖父の気持ちなどを推し量る余裕など、これっぽちもなかった。半世紀も過ぎた今となっては、ただ想像で祖父の晩酌を語るのみである。

祖父のことで今言えるのは、立派な軍人(第一次世界大戦時は陸軍大尉)で強靭な精神力と若かりしころは屈強な肉体を持った人物であっただろうということである。強靭な精神力と言ったのは父が早世した時に涙一つ見せることなく気丈に振る舞い、その感情を一切外に出さなかったことである。恐らくこれは下級武士と思われる先祖(曽祖父や高祖父)から受け継いだ武士道がかなり影響しているものと察している。また屈強な肉体といった根拠は私が祖父と接した最後の思い出となった金華山旅行の際、岩場で褌一本になって私の目の前でとても75歳とは思えない泳ぎを披露したことである。この時に見せた祖父の男らしく悠然とした振る舞いは今でも私の瞼に焼きついている。

私は還暦近くになって祖父の偉大さが益々重きを成すに至ってきたと感じている。そんな祖父は傾きかけた生家の危機を救った人物でもあった。1891年に石巻町(現石巻市)大街道の地主の家に次男として生まれた祖父は、血の繋がってない曾祖母の家に養子として向かい入れられることとなった。ここで祖父は往時の石巻で隆盛を極めた水運(藩政時代の石巻は江戸に千石船で米を送って栄えた港町であった)に関連した陸運(当時は荷馬車の時代)を開業した。

但し今となっては往時の事情を知りうる人物は、そのほとんどが故人となったゆえ、このあたりの事情は生存している一人の親戚からのみ窺い得るものであり、その様子もごく断片的にしか伝わってこない。今言えるのは祖父が実直で誠実な人物であり、養子に入った家を一代で見事に立て直したという事実である。

時代は大正の初期、祖父母は石巻の商業地であり流通の中核であるこの地に根付き男二人、女一人をもうけた。その長男こそが私の父である。聞くところによると、私の実家の目の前の道には、昭和初期の頃まで水運に用いた運河が存在したと言う。恐らく若かりしころの祖父はこの堀(運河)を毎日見ながら運送業に精を出していたことだろう。但しこの事業だけで三人の子供を養い、学校に入れるのは容易でなかったのではないだろうか?それを証拠に往時裏通りまで繋がっていた非常に細長い土地の約半分を売りに出した経緯があった。

祖父は第一次世界大戦時は二十代半ばで将校(大尉)であったと伝え聞くが戦争に派遣されたかどうかまではわからない。親戚であるA氏によると、祖父は一時師団のあった仙台に移り住み、乗馬に及んだ軍人とのことであった。往時の軍人としての祖父の存在は孫の私には想像がつかないのだが、父を始めとした三人の兄弟は恐らく気骨ある祖父に厳格に育てられたものと踏んでいる。

昨今私は晩酌に及ぶ時、偉大な祖父のことを思い出すことがある。武士道や軍人の心を感じる厳格な祖父だが、孫の私にはいつでも優しかった。どんないたずらをしても一度も怒られた試しがなかった。私は還暦近い年となった今、そんな祖父に恩返しがしたいと思うことがある。それはこうして一日の勤めを終え、晩酌している時に思い浮かぶのである。私は家督としてそんな祖父の名誉を辱めることなく、己に与えられた道を堂々と歩んで行くことだろう。
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