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関ヶ原合戦後、尼寺で切腹した和賀忠親
昨年の12月29日のことだった。私は年末の休暇を利用して仙台市東部にある或る尼寺を訪ねた。寺の名前は国分尼寺である。比較的新しい山門である。

国分尼寺の位置を航空写真で確認して頂きたい。
住所:宮城県仙台市若林区白萩町33-26

社殿もこのように新しいものとなっているがその歴史は非常に古い。

※仙台 国分尼寺
近くにある国分寺と同様、741年の聖武天皇の勅命によって建立された国分尼寺のうちの一つ。寺域や伽藍配置などははっきりわかっていないが、北部の畑地に観音塚と呼ばれる土壇が遺存している。1948年国指定史跡とな1964年の発掘調査で、基壇上に建てられた金堂が発見された。基壇内には金箔の入った土師器の菱が埋納されていた。金堂には陸奥国分寺の創建瓦と同種の瓦が使われているので、国分寺とほぼ同時期に創建されたとみられる。 

私は昨今寺を訪ねる時、誰が眠っているか必ず調べるのだがこの寺には和賀忠親なる人物が眠っているようである。

和賀忠親の墓は本堂裏手の敷地南西部分にあった。

和賀忠親(1576~1601)
※以下Wikipediaから引用し横町が編集
かつて陸奥国和賀郡(現岩手県北上市周辺)を治めた和賀氏の当主。元々は陸奥国和賀郡を支配していた国人領主だが、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣せず、名代だけを派遣したことから改易され。その後、伊達政宗を頼って伊達領の胆沢郡に住1600年には関ヶ原の戦いで、領地拡大の野望を抱く政宗の密命を受けて、旧領を回復しようとし和賀郡を支配していた南部利直の領地に攻め込み、花巻城を急襲したが、反撃を受けて退却する。逃げ延びた和賀忠親は、近臣の蒲田治道、筒井喜助、齋藤十蔵、八重樫孫三郎らとともに陸奥国分尼寺で自害した(一説に伊達家のために切腹を願い出たとも、政宗により暗殺されたとも言われる)。

墓は仙台市若林区の国分尼寺に近臣人のものとともに立てられている。伊達政宗の領地拡大と己の旧領地奪回の思惑が結びついての家康への謀反であった。伊達政宗は忠親義烈を感じその遺骸を国分尼寺に葬り篤く弔った。尚、忠親の子の義弘は伊達領である松山の地に留め永世客分として扶持した徳川家の後に及んで、伊達家の責任を追及しなくなったものの、政宗は関ヶ原の戦いの際に家康から約束されていた万石(戦利品)のお墨付きを反故にされたと言われる。

七人の家臣とともに自害した彼の墓は7m角ほどの部分に子孫によって手厚く葬られていた。武士らしく潔く散ったとは言いながらも旧領地の奪回もならず、さぞかし無念であったのではないだろうか?

比較的新しい墓石には彼の名が戒名とともに刻まれていた。

忠義を感じた政宗のために死を選んだ彼に武士としての壮絶な生き様を感じたこの日の歴史探索であった。
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