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エッセイ「裸の王様と呼ばれて」
ここ数年前から挨拶の仕方や年賀状の出し方への考えが変わった。これを有り体に言えば、義理や利害に関わる年賀状を出さなくなったということになる。以前は義理に捉われたり、機嫌を取るような年賀状を出したことがあったのだが、このスタイルを続けていくと、これから先もずっと人の顔色を覗うようなスタンスになると考えたからである。

日常の挨拶も考え方を変えた。儒教でいう礼節を重んじる日本古来の武術(柔道、相撲、剣道etc)は礼に始まり、礼に終わるがこの時、段位や番付の上下は一切関係なく公平に行われなければならない。私はここに着目したのである。これを企業に置き換えるなら、上司だろうが部下だろうが人間としては対等であり、役職による挨拶の使い分け(タメ口と丁寧語による区別)は許されないということになる。私はこれを使い分けるのは帝王学の誤用と考えたのである。かくして私は礼節と諂いを全く別のものと捉えるに至った。

ここで帝王学について述べたい。帝王学は今や皇室や王室などの特殊なケースを除いては死語のような存在になっているが、それは表面上のことだけである。帝王学について調べていくとお辞儀をするときの前傾の角度や、言葉遣いに至るまで様々な作法が記されている。但し、そのような帝王学を使うことが出来るのは皇室や王室に限ってのことである。私はこれに着目し、これを勘違いして役職によって言葉使いを変えたり、年上の部下に威張り散らしたりする理不尽極まる帝王学と真っ向から戦ってきたのである。儒教に於いては年長者への礼節は殊の他肝要なものとなっているが、その輩どもはこうしたモラルを知らないか、知っていても無視しようとしているものと捉えたのである。

年上の社員に対して人権を軽んじた挨拶を行い、ぞんざいな言葉を使えばやがて服従するだろうという思い上がり(帝王学の御用)に異論を唱え、私は奴らに真っ向から打ち合い、果し合いを挑んだのである。そんな私には大義があった。それは憲法で定められた「基本的人権の尊重」である。それによれば人は思想や国籍、その他に関わらず平等に扱われなければならないと記されている。もちろんその他の中には地位や役職も含まれる。私はこれを大義として掲げ、奴らの矛盾に正面から挑んだのである。それは前代未聞とも言える戦いだった。

だが、私は絶対に後ろに下がらなかった。何故なら下がらねばならないのは奴らのほうだったからである。かくして私は名誉を失うことなく今も堂々と会社勤めをしている。今でも奴らが出てくればいつでも受けて立つという姿勢を貫いている。この考えにはここ数年のうちに修得した武士道が影響している。但し、こうした生き方を貫くうちに私の取り巻きが一人減り、また一人減っていった。普遍的な視点で捉えれば職に於いて名誉を求めるならば孤立を招くものであり、失うものも多い。だが、私はそれも想定内と心得ている。何故なら私は百も承知の上で奴らの奴隷になるのを拒否し、裸の王様になる選択をしたからである。
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