fc2ブログ
ここ数年郷土史に親しんできたが、その多くは仙台藩創世記と言える伊達政宗公絡みのものが多かった。しかしながら今年の秋、みちのく春秋の編集者である井上氏から幕末の歴史講座「奥羽越列藩同盟 東北政権樹立の理想と挫折、そして今」(歴史作家、星亮一氏講演)出席へのお誘いを頂き、これが中世に捉われない郷土史全般への新たな指向へと繋がった。同氏には改めて厚く御礼申し上げる所存である。

さて、我が国には「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉が存在する。これは言うまでもなく、明治維新の際に薩長を中心とした新政府軍が官軍と言われ、これに敵対した奥羽越列藩同盟軍が戦いの結果を以って賊軍と称されたことに発するものである。こうした視点を我が郷里仙台に目を向けるならば、藩祖伊達政宗公の築いた62万石の上に安閑と居座り、さしたる大義もなく(往時の仙台藩は徳川幕府をあくまで支持する佐幕派と薩長同盟を受け入れ会津を討とうとする尊王派がお互いに意義を唱える状況にあり、藩主伊達慶邦の下やや統一を欠き、我が仙台藩は戦に於いて足並みの揃わぬ爆弾を抱えていた)賊軍となって敗れ去った上に石高を半減された幕末の仙台には、大変残念ながらテンションの低下を感じざるを得ないものがある。

しかし、そんな仙台藩にも救いもないわけでない。愛すべく郷土仙台に生きる者の一人として、私はその暗闇の中でも微かな希望の灯火が目に入るのである。それは激動の仙台の幕末に侍として生き、波乱万丈の人生を全うした熱血極まる人物である。

幕末の郷土史探訪と一線を画することなく進めてきたのが家系図の作成である。つい先日郷里石巻在住の親戚と逢い、私の曽祖父が石巻大街道地区の地頭であることを知り、同時に戊辰戦争で大活躍した或る人物への関与が浮上するに至った。その人物こそが先ほど述べた仙台藩士、細谷十太夫直英である。十太夫は50石取りの大番士であった細谷十吉の長男として1845年(一説に1839年)、仙台城下北五番丁二本杉通東南角に生まれた。(三原良吉氏「宮城の郷土史話」より引用)


私の曽祖父は1863年生まれで十太夫とは18歳(或いは24歳)年下ゆえに大街道開拓時代は二人は親分、子分的な関係だったのかも知れないし、或いは若年ゆえ、曽祖父は高祖父(曽祖父の父であるT)に伴ってこの開拓事業に参加したのかも知れない。何れにせよ、この開墾事業は往時牡鹿原と呼ばれた湿原で多大な苦労を伴ったものであり志半ばで挫折をした者も少なくなかったと聞いている。

恐らく大親分である十太夫の指導の下に、私の高祖父や曽祖父は夏場に於いては毎日、汗と泥にまみれて田畑を耕し、又冬の凍える日は掘立小屋の中で隙間から入り込む粉雪に眠れぬ夜を過ごしたのでなかろうか?

昨今のこうした先祖への強い畏敬の念が細谷十太夫への興味に繋がり、やがて「からす組」(著者、早乙女貢)の読破へと繋がった。

往時の官軍で流行った歌に「からす組、なければ官軍高枕」というものがある。十太夫の神出鬼没極まる活躍は最新鋭の武器を携えた官軍をもってしても、これを震撼させるに十分なものであった。著者である早乙女氏の先祖は会津藩士とのことで、奥羽越列藩同盟びいきの内容、転じて会津藩と同盟を組み、これを援護しようとした仙台藩ひいきのものとなっている。戦争が綺麗事でないのはいつの世も同じであるが、彼は官軍の蛮行とともに仙台藩に於ける戦下手(最新鋭の銃器によりそれまで刀槍を主にした戦の形態はもはや通用しない旨)や、吉田松蔭の新思想を始めとした薩長同盟軍に於ける身分にとらわれない人事登用も認めている。

※仙台城跡(黄色□)と細谷十太夫生家跡(赤○)の位置を航空写真で確認して頂きたい。

※赤○:細谷十太夫生家跡

十太夫は士族という身分にとらわれるような仙台藩の中にあって唯一、士分以外の者を兵士に登用した。彼は須賀川の旅籠に陣営を張り兵士を募った。例え侍でなくても志あるものは士分として取り上げようとしたのである。その結果、博徒(やくざの親分を含む)や雲助(無頼の輩)、マタギが57名ほど集まった。十太夫はこの中で士分の者を小隊長に任命し、白河周辺で夜襲を主にゲリラ戦を展開した。闇夜に紛れて官軍を襲いやがて多くの成果を上げるに至る。そしてその活躍ぶりは敵味方を問わず広く知れ渡ることとなった。

そして混乱の中で奥羽越列藩側の負け戦が決まると彼は薩長同盟軍からA級戦犯として捕獲され、二度も首を撥ねられそうになるが、寸前のところを奇跡的に助かる。その後は西南役や日清戦争(将校格)に駆り出されたり、北海道の日高沙流部開墾城司長に就いたり1880年からは石巻大街道開墾城長にも就任した。日清戦争から帰還した彼は戦死した部下の霊を慰めようと出家し、現仙台市青葉区の竜雲院の住職になり1907年、畳の上で波乱の生涯を閉じた。

然るに、薩長軍側から見れば単なるテロリストにしか見えない彼も石巻では英雄である。何故なら彼は既に降伏謝罪に及んだ仙台藩を再び戦渦に巻き込もうとした幕府側海軍総指揮官である榎本武揚と交渉を持ち、多大な援助物資と引き換えに石巻が戦場となるのを防いだからである。彼は軟硬自在な立ち振る舞いで、己の危険を顧みずに仙台藩の危機を見事に救ったのである。私は己の先祖がこのような歴史を動かした人物に関わった可能性があることに驚いている。そしてこの熱き感動を近いうちに創作に著したいと考えている。
関連記事

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)