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仙台藩士牡鹿原開拓事業に携わった私の先祖
私はつい最近家系図を作成し、親族に配った経緯がある。このことがきっかけとなり、去る11月30日は明治の頃、石巻市大街道地区(旧牡鹿原)開拓に携わったと思われる曽祖父Gを偲ぶ小旅を思い立った。JR仙石線に乗った私が降りたのは石巻市の大街道地区にある蛇田駅である。

列車の中ではずっとこの本を読んでいた。早乙女貢著の「からす組」である。
この本の主人公こそが、戊辰戦争で活躍したからす組を率いる仙台藩士細谷十太夫直英である。

        細谷十太夫直英(1845~1907)

蛇田駅で友人と落ち合い、車に乗って仙台藩士牡鹿原開拓記念碑のある青葉神社へと向かった。今は見通しが利く境内であるが、友人によるとこの神社も震災の津波に襲われ、境内の木々の多くが失われたとのことであった。左側の石碑が仙台藩士牡鹿原開拓記念碑である。

青葉神社の位置を広域地図で確認して頂きたい。

神社の周囲は住宅地となっており、農地だった面影はほとんど残っていない。

縦書きで読みづらいが確かに仙台藩士牡鹿原開拓記念碑と刻まれている。

※仙台藩士牡鹿原開墾記念碑Wikipediaより引用
大街道一帯は、元来、牡鹿原と言われた低湿地帯の土地であった。運河工事が進み乾燥地となった土地に着目し開墾したのが、戊辰戦争の際、石巻の危機を救った細谷十太夫直英である

1880年門脇村(現宮城県石巻市大街道地区)に開墾場を開設、初代場長に細谷十太夫直英が就任すると、開墾地は北上運河周辺の官有地約287haの土地に加えて、石巻の豪商戸塚貞輔が開墾地利用を条件に政府に寄付した土地と合わせて328haとなった。

当初48名の入植者からスタートした開拓は困難を極め、苛酷な労働で体調を壊し、途中で脱落する者も見られた。その後、残った入植者たちの努力によって、荒れ地は肥沃な農地へと変わり、梨、麦、豆などの栽培に成功。現在の石巻市門脇青葉西にある青葉神社(藩祖伊達政宗公を祀った仙台の青葉神社からの分詞)の鳥居の横に1920年に建立された「牡鹿原開墾記念碑」があり大街道開拓の経緯が刻まれてい

そして場長として細谷直英(十太夫)の名が刻まれていた。

青葉神社の社殿は質素ながらしっかりと造られている。縁の下を見ると震災後に補強された跡が見られた。

これは東側からのアングルである。

スレート葺きの屋根の棟部には伊達家の家紋である竪三つ引両が入っており、ひと目で伊達藩とゆかりのある神社を彷彿させるものである。

青葉神社の付近をgoogle航空写真でご覧頂きたい。住宅地の中には農地(畑)と見られる土地も点在するようである。

友人と車に乗って仙石線踏切を越え、北に向かった。青葉神社からは約800メートルほどの地域にはまだ水田も残っていた。

祖父かたの親戚A氏によると、この辺りには昔灌漑用の池や堀が多く見られたという。この用水堀と貯水池は新しいもののようであるが往時の名残と見られる。

私の曽祖父は十太夫とは18歳の年下ゆえ、開拓に携わったのは或いは曽祖父の父(高祖父T)かも知れない。この父子は厳しい労働条件にも関わらずこの大街道開拓に尽力し、広い土地を授かり、その後の一族の土着、繁栄に尽力したと思われる。この開拓事業は明治維新で石高を半減された仙台藩士を救う目的があったとされる。従って仙台藩下級武士であった私の先祖がこの開拓によって救済されたものと考えている。

入植者の住まいは当初は掘立小屋同然であったと聞く。冬場になれば隙間からは粉雪も舞い込むような様だったのかも知れない。彼らの血の滲むような努力があってこそ今の自分がある。そう思うと畏敬の念を感ぜずには居られなかった。私は先祖ゆかりの地に深く低頭し、友人とともにこの地を後にした。
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