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私は現在、1671年に起きた寛文事件の研究を進めている。本日友人と訪ねたのは烈士伊東七十郎生誕の地と屋敷跡である。この資料をご覧頂きたい。伊東七十郎の居住地は「北村」という地名になっている。
※須知徳平訳教育社新書「原本現代訳伊達騒動上下版」より引用

史跡探訪にはある程度勘というものが必要である。メジャーなものは地図やインターネットなどで見つけるのは容易であるが、マイナーなものは第六感ばかりでなく、時として現地の住民のかたへの聞き取りも必要となることがある。今までの経験上、こうした情報網をフルに使わないと無駄足を踏むことになりかねないのである。

この重孝神社は旭山県立自然公園の南東部に位置するが車で行った際よほど気を付けないと通り過ぎてしまうほどである。「先生」という敬称に注目。祭神として伊東七十郎重孝が祀られているほど彼は郷里では英雄、否伝説的な存在である。

NHK大河ドラマで「樅ノ木は残った」が放映されたのは1970年ゆえ、既に44年の年月が過ぎている。この看板は錆具合からその当時に掲げられたものらしい。

これを思うと大河ドラマのもたらした影響は極めて大きいという気がする。とにかく伊達騒動が全国的にも脚光を浴びる大きなきっかけになったのは、山本周五郎による「樅ノ木は残った」執筆と同作の大河ドラマでの放映と言っても言い過ぎでない。それにしてもこの神社のある場所が彼の生誕の地であるのは驚きに価するものである。

知人の車を近くの空き地に止め、道路を100メートルほど歩くと林の木々の合間から重孝神社が見えた。何やら人里寂しいところにひっそりと建っているような気配である。

航空写真で
・重孝神社(赤○:伊東七十郎生誕の地)
・伊東七十郎屋敷跡(黄色○)
を確認して頂きたい。直線距離にすれば1キロ少しと思われる。

田の中の小道を通って小高い社殿に通ずるところには赤い鳥居が立っていた。

鳥居をくぐるとすぐに社殿が見えてきた。地震のせいだろうか?左側の狛犬は台座から欠落していた。何か痛々しい気がする。

この石碑をご覧頂きたい。彼の絶筆とされる文である。人心惟危 道心惟微 惟精惟一 允執厥中』中国の書経からの引用である。
 
この文の意味は『人の心は肉体があるから、物欲に迷って邪道に陥る危険があり、本来人に備わってる道義の心は物欲に覆われ微かになっている。それゆえ人心と道心の違いをわきまえ、煩悩にとらわれることなく道義の心を貫き、天から授かった中庸の道を守っていかねばならない。』というものである。
※諸橋轍次編集「中国古典名言事典」より引用
 
彼が広瀬川河畔で処刑されたのはこれを書いた後の四日後、1668年8月のことであった。

真田幸村、大石内蔵助、土方歳三…、侍の中でも烈士と称されるのはごく一部である。仙台藩士伊藤七十郎も烈士である。この書こそは烈士に恥じない信念に満ちた力強い筆跡である。


※大河ドラマ「樅ノ木は残った」の一場面より引用

彼が生誕したとされるところから旧道(気仙浜街道)を見下ろしてみた。
中央の太い樅の木に注目。己の命が滅んでも仙台藩を遺すという彼の遺志はこの樅の木に受け継がれ、きょうも彼の生誕の地を暖かく見守っているのである。

この後、友人とともに彼の屋敷跡に向かった。土地勘もなくこの場所ににたどり着くのは極めて難しい。私は5人に及ぶ近隣住民のかたに聞き取りを行い、5人目のかたにわざわざ現地まで案内を頂いた。そのかたのは本記事にて改めて厚く御礼申し上げる次第である。伊藤七十郎屋敷跡は右側の林のところになる。

航空写真をご覧頂きたい。赤:伊藤七十郎屋敷跡に対して「七十刈」なる地名が存在する。名前からいって恐らく七十郎の名前から由来する地名と推測した。

私道を歩いてこの立札があるところに到達した。間違いなく、伊藤七十郎屋敷跡(河南町教育委員会)である。

ブログ仲間ロッソさんが5年前に撮影したと思われるものとほぼ同じアングルで屋敷跡と二つの石碑を捉えた。ここに彼の屋敷があったと思うと興奮を感ぜずには居られない。

石碑には烈士伊藤七十郎の碑と刻まれていた。

帰り道すがら、七十郎の屋敷跡から海側を見てみた。左側の林の方向が石巻方面である。屋敷があったところはお世辞にもいい場所とは言えない。二百石の下級武士ゆえ致し方ない感じがする。但し、この土地柄こそが彼のハングリーとも言える志を育んだのではないだろうか?

古来から、生まれながら恵まれた人物の大成は難しいとされる。伊藤七十郎の生い立ちに際し、逆境こそが人を大きく、強く育てるアイテムと感じた次第である。
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