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歴史小説「我がルーツと大河北上」(下)

仙台藩士・細谷十太夫の電光石火ぶり
話は一気に幕末に飛ぶ。我が仙台藩の幕末の行く末に目を向けるならば、藩祖伊達政宗公の築いた62万石の上に安閑と居座り、さしたる大義もなく(往時の仙台藩は徳川幕府をあくまで支持する佐幕派と薩長同盟を受け入れ会津を討とうとする尊王派がお互いに意義を唱える状況にあり、藩主伊達慶邦の下やや統一を欠き、我が仙台藩は戦に於いて足並みの揃わぬ爆弾を抱えていた)賊軍となって敗れ去った上に石高を半減された幕末の仙台にはテンションの低下を感じざるを得ないものがある。

しかし、そんな状況下の仙台藩にも救いもないわけでない。愛すべく郷土仙台に生きる者の一人として、私はその暗闇の中でも微かな希望の灯火が目に入るのである。それは激動の仙台の幕末に侍として生き、波乱万丈の人生を全うした熱血極まる一人の人物である。その人物こそが細谷十太夫直英である。十太夫は50石取りの大番士であった細谷十吉の長男として弘化2年(1845年、一説に1839年)、仙台城下北五番丁二本杉通東南角に生まれた。戊辰戦争時、彼は仙台藩偵察方として遊撃的な任務に就くことになる。ゲリラ戦は得意中の得意ゆえ、十太夫の神出鬼没な活躍ぶりは最新鋭の武器を携えた官軍をもってしても、これを震撼させるに十分なものであった。

※仙台藩士・細谷十太夫直英

新政府軍を敵に回し戦地に赴いた細谷十太夫は士族という身分にとらわれがちな仙台藩の中にあって唯一、士分以外の者を兵士として登用した。彼は激戦となった白河城近くの須賀川の旅籠に陣営を張り兵士を募った。例え侍でなくても志あるものは士分として取り上げようとしたのである。その結果、博徒や雲助(無頼の輩)、マタギが57名ほど集まった。十太夫はこの中で士分の者を小隊長に任命し、白河周辺で夜襲を主にゲリラ戦を展開した。闇夜に紛れて官軍を襲いやがて多くの成果を上げるに至った。そしてその活躍ぶりは敵味方を問わず広く知れ渡ることとなった。往時の新政府軍の間で流行った歌に「からす組、なければ官軍高枕」というものがあるが、彼らがどれだけ細谷十太夫に怯えたのかが窺える言葉である。

十太夫の活躍はあったものの、既に奥羽越列藩同盟の旗色は悪く、仙台藩は慶応4年旗巻峠の戦いで破れたのをきっかけに、降伏を決定した。その後、細谷十太夫は既に降伏謝罪に及んだ仙台藩を再び戦渦に巻き込もうとした旧幕府海軍副総裁の榎本武揚や新撰組の土方歳三との交渉を受け持ち、多大な援助物資と引き換えに石巻が戦場となるのを防いだ。

そんな彼は薩長同盟軍からA級戦犯として追われることになる。捕獲され、二度も首を撥ねられそうになるが、寸前のところを奇跡的に助かった。その後は西南役や日清戦争(将校格)に駆り出されたり、北海道の日高沙流部開墾城司長に就いたり明治13年(1880年)からは石巻大街道開墾城長にも就任した。明治15年(1882年)には開拓使権少主典に任じられ、部下を率いて北海道に赴き開拓に従事する。更に1894年の日清戦争では陸軍少尉となり、中国に渡って千人隊長として活躍した。帰国後は警視庁小隊長となる。日清戦争から帰還した彼は戦死した部下の霊を慰めようと出家し、仙台城下の竜雲院の住職となり、明治40年(1907年)5月6日、63歳で波乱の生涯を閉じた。

大川家の大街道入植
戊辰戦争に破れ、石高を半分以下とされた我が仙台藩にとって、明治は試練の時期と言える。大川家もその激動の中で喘いでいた。冬になると掘立て小屋には容赦なく隙間風が吹き込んでくる。食糧事情も劣悪で皆が生きるのに必至だった。そんな時に県による士族授産が行われることになった。明治13年(1880年)門脇村の牡鹿原に(現宮城県石巻市大街道地区)に開墾場を開設、初代場長には旧仙台藩士の細谷十太夫直英が就任することになった。開墾地は北上運河周辺の官有地一体である。大川家は迷うことなくこの事業に入植者の一部となり、一家は毎日泥まみれとなって働いた。

しかしながら、当初48名の入植者からスタートした開拓事業けして順調とは言えず、苛酷な労務から得られた収穫は惨憺たるもので、当初は脱落者が続出しこの地に土着したのは入植者の半数にも満たない20戸ほどだった。この時、私の曽祖父である権兵衛(1863~1935)は十太夫とは18歳も年下ゆえ、開拓に携わったのは或いは高祖父の恵治(1835~1900)なのかも知れない。残念ながら菩提寺の過去帳が消失した今となってはそれを調べる術はない。

石巻市史第四巻から、牡鹿原入植の趣旨を抜粋する。
1、牡鹿原開墾に於いては、明治13年(1880年)に歴史的な第一鍬を下ろすものとする。
2、新墾(初期の開墾と解釈)は明治14年より同17年までの4箇年に於いて成業するものとする。
3、開墾地は専ら、稲田、桑園及び芦栗の植栽を目的とする。
4、入場を許すべき士族は身体強壮にして労力に耐え、兼ねて農業篤志の者に限る。
5、入場者には独立移住の期まで、食費を給し且つ、一日五銭の手当金を支給する。
6、精勤に及んだ者には特に賞与を給する。
7、入場者には家屋、農具の貸与を行う。
8、開墾に供する農地の貸与期間は15年とし、その後に貸渡料を徴収する。
9、入植者が家族を呼び寄せる際、独立家屋の建造資金を支給し、別に扶助料(移住を開始した月から三ヶ月、一日一名食費・三厘三毛)を給付する。
10、成功を収めた場合、各一戸につき、田一町部、畑五反、宅地一反を支給し、家具や農具の貸付を行う。

入植者には希望に満ちた士族授産事業だったが、実際は私財を投入しないととても生計が成り立たないほどの状況だったという。特に穀物(さとうきび等)や野菜、果物(梨等)の収穫は入植者にとって全くの期待外れとなり、その多くが離散したという。もう一つの問題は入植者の働きぶりだった。携わった者の多くが士族出身ということで、殆どの者が農作業に不慣れなこととがこの事業に困難を来たしたのは否めないところだが、それに加えて精勤に及ぶものとそうでない者との差が大きく、これが土地分配時の不公平感を抱かせる原因となっていった。こうした不協和音がもとになり、明治15年(1882年)の騒動に発展していったのである。

大街道騒擾事件
騒動の発端は土地の割譲(開拓が進んだ部分)を巡って起きた。この年の12月9日、場長・細谷十太夫不在のまま、平等配分を唱える横尾芳成を中心とする平等配分派と業績(入植者各自の働きぶりが詳しく記録されている書面があった)に応じた分配を主張する業績応報派が対立し、相談会の場で決議を行ったところ、平等配分派が票数で業績応報派を上回り、土地の平等分割が決まった。これに対してこれまで一所懸命に開拓に精を出してきた者(13名)は憤懣やるかたないものを感じつつもその日は引き下がった。騒動が勃発したのは翌々日の12月11日である。13名の業績応報派は同輩の故人・山田信雄の供養と称し、鰐山の墓地を訪れやけ酒を喰らった。

勢いついた13名は酩酊に至った上で、横尾らの平等配分派の居宅に押し入り、暴力を奮い、器物を破損させる等の狼藉を働いたのである。事件を聞いた細谷十太夫が病気を押して現地に駆けつけ、暴徒を取り押さえるべく、石巻警察署の署員派遣を要請し身柄を押えた。被害者は医師の診断書を提出し加害者を告訴した。資料の乏しい中、この騒動に大川一族が具体的にどう関わったのか、或いは関わらなかったのかを調べる術もないが、その後の大街道で広い耕地を手に入れたことを考えると、恐らくは暴力沙汰を起こした業績応報派とは一線を画する立場だったのだろう。

細谷場長は13人が馬耕の習得者であった点に考慮し彼らを擁護し、心情を考慮した上で野蒜築港(明治初期に石巻湾に面する桃生郡を中心に行なわれた港湾建造事業の人足に回され、比較的穏便な措置が取られたようである。人の僻み妬みほど怖いものはないが、この事件は精勤に及んだ者の暴走行為が生んだ悲劇と言える。暴力沙汰を起こした彼らの心情としては、正直者が馬鹿を見ることが許せなかったのだろう。大街道開拓にはこのような大きな紆余曲折があったのである。

こうしたいきさつもあり、開拓を始めて僅か三年後の1883年(明治16年)には入植者の数は、約半数の二十戸ほどに減った。我が高祖父・恵治と曽祖父・権兵衛は死に者狂いで生業に励み、その二十戸の中に入った。これによって大川家はこの地に広い農地を有するに至った。そうして家督である権兵衛の次男として1890年(明治23年)に生まれたのが私の祖父・清治郎である。大街道地区はこうした挫折を経て、入植者たちの努力によって肥沃な農地へと変わり、梨、麦、豆などの栽培に次々に成功した。入植者の生活に安定と繁栄がもたらされたのは大正時代に入ってからのことである。

ところで現在の石巻市門脇青葉西(大街道地区の中心部)にある青葉神社(藩祖伊達政宗を祀った仙台の相葉神社からの分詞)の鳥居の横に、1920(大正9年)に建立された「牡鹿原開墾記念碑」があり大街道開拓の経緯が刻まれてい石碑には場長として細谷の名が刻まれている。

横町本家について
これまでに血の繋がっている祖父方ルーツの大川家について述べてきたが、今度は自分の本家について述べたい。実は自分のペンネームである横町利郎は生家の石巻市横町(現千石町)から取ったものである。祖父・清治郎は大川家の次男に生まれ、横町家に養子に出されたのである。祖父が養子に入ってから嫁に迎えたのが、我が祖母・しほである。幼少期の祖母についての思い出を語るならばどうしても食べ物のことが多くなる。生家は菓子屋だったこともあり、店頭に並んでいるものを望めば、その殆どが私に与えられた。

祖母から施されたチョコレートやキャラメル、和菓子の味は今でも忘れられないが、4歳の頃石巻唯一の百貨店であった丸光デパートに連れて行かれ、この地方ではここでしか食べれないソフトクリームをご馳走になった思い出は今でも自分の一生の宝である。この生家の菓子店を開業したあたりのことは資料もなく定かでない。これについては古老や石巻の郷土史家からの情報を探りたい。

話は変わるが、昨今昭和26年に米国軍医のジョージ・バトラー氏によって撮影された宮城県沿岸部のカラー写真が話題になっている。その中に生家・横町の北隣である旭町のモノクロ写真が登場する。写真に堀が写っているが、この堀はへびたかいこほりとも墨廼江堀とも三間堀とも言われている。この堀の下流として私の生家のある横町を平行して流れるのが横町川である。その昔、旭町には町外れとしての宿場があり、宿役を支える為に近郊の蛇田村というところから移住が行われ町名を蛇田町と言った。
墨廼江堀(石巻かほく誌面より引用)

この時移住した者の多くは屈強な肉体を持つ剛の者だったと言われる。親戚から聞いた話では祖父が養子に入った横町家の曾祖母Mは養蚕業を営んでいたと聞いている恐らくMや高祖母Rはこの堀の下流に当たる横町小川から水を汲んで蚕に与えるのが日課だったことだろう。横町と蛇田町の町境には石巻屋敷と言う役人の屋敷もあった。尚、高祖母であるRは屋号つきの女主(石巻の歴史第9巻の横町の住人の構成に高祖母と見られる人物が登場する)だったようだが、この二人については今後の研究課題である。

後書き
北上川(北上河)という名前が最初に確認されるのは吾妻鏡である。文治元年(1189年)には既に北上という名前が登場するのである。それ以前は日高見川と呼ばれ、ストーリーに登場させた日高見神社にその縁を見出すことが出来る。日本書紀の中に「東の外れのほうに日高見という国がある。その国の人々は男も女も髪を分けて刺青をし、勇ましくたくましい蝦夷と呼ばれている」との記述があるが、或いは自分のルーツを更に遡れば蝦夷に行き着くのかも知れない。そういう意味合いもあり、大河北上は私の生い立ちを語る上で欠かすことの出来ない存在である。芥子粒ほどの我が身を母なる大河北上に託す。自分はここに全ての煩悩を浄化するほどの神々しいものを感じるのである。

古文書などの資料は残ってないものの、先祖代々の言い伝えやルーツの散らばりようを客観すると、二人の仙台藩士(河村孫兵衛重吉、細谷十太夫直英)に密接に関わったことがわかる。原戸籍での大川一族の石巻西部一帯の居住確認するにつけ、その大きな流れから言って、確度はかなり高いものと考えている。

祖父方ルーツである大川家は、過去において何度も家存亡の危機に瀕しながら、都度不撓不屈の精神を発揮しながら不死鳥のように立ち直ってきた。祖父・清治郎は軍人でもあったが、どんな窮地に立たされてもけして物怖じしない強い精神力を持った人物であった。自分は過去に欝を乗り越えた経験があるが、そう思うと自分の体内にも剛毅なる血が脈々と流れているのを自覚するのである。どんな困難に瀕しようが、何物にも屈しない精神力と生き残る為の英知のたゆまぬ追求は私の座右の銘でもある。

東北太平洋沖地震から8年目を迎えた今、自分はルーツの持ち味である反骨精神にあやかり、郷里石巻の再生を温かく見守って行きたいと考えている。自分は2017年に石巻の郷土同好会である石巻千石船の会に入会した。これによって志を同じくする先賢との横の繋がりが出来、様々な情報も入ってくる。自分は大河北上の河口の町である石巻に生を受けた因果に感謝するとともに、祖父母から受けた返しきれないほどの恩愛を、郷土研究と執筆活動に尽くすことで、少しでも返したいと思っている。

本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

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コメント

No title

こんばんは~
自分のルーツ、先祖様からの言い伝えであれば、未来にも残したいですね。
上手く移行できることを願ってます。ナイス☆彡

URL | ☆シーマン☆ ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

こんばんは!

ご苦労の多かった大川家のご努力から横町家へ入られてからゆるぎない地位が出来て行かれ、現在に繋がっているのですね。石巻史誌等で憶測も当然ながら色々詳しく
読ませて頂き素晴らしかったです。

高祖母様の事も興味有ります。どんな困難をも屈しない精神力と英知の追求でこれからも恩愛一杯受けられた
祖父母様や郷土の為に尽くされますお姿、又執筆活動で
見せて下さいませ。

URL | suisyou ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

こんばんは。
長い年月のルーツを調べ、形として残されて行く事は
大変な作業だと思いますが、本当に大きな財産だと思います。自分の幼い頃の思い出も色々と蘇り
文章で残していく魅力は永遠に後の時代まで
続いていきますね。

URL | joeyrock ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

よく調べられましたね。
こうしてご先祖様の苦労や努力を知ると、今私たちがここにこうして居ると言うことが、何事にも代えがたいことと思います。
ルーツを知ると言うことは、感謝することですね。

URL | 布遊~~☆ ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

こんばんは 横町さん

更新お疲れ様です。


歴史小説「我がルーツと大河北上」
この長文をすらすらと書かれている横町さんを想像して圧倒されました。すばらしいですね。

昔のソフトクリーム。
デパートへ行った時に食べさせてもらう特別なものだったことを思い出しました。

祖父母様への恩愛を研究と執筆で恩を返していくとの横町さんの熱い思い、有言実行されているので
祖父母様もあちらから微笑みながら見守られていると思います。

URL | ヤスミン ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

> ☆シーマン☆さん
この作品は間もなく文芸誌に寄稿する作品ですが、祖父母が居なかったらとても書けなかった作品です。
途中で挫折しようとしたこと数度ですが、その都度天国の祖父母が自分の背中を押してくれました。

おはからいにより、本日もお励ましを頂戴しました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

> suisyouさん
ありがとうございます。そのお言葉だけで書いた甲斐がありました。少しは祖父母に恩を返せた気が致します。
後は横町本家のほうも調べたいところですが、とりあえず石巻図書館などで文献を調べ、土地の古老や郷土史家から入ってくる情報にも耳を傾けたい所存です。

今回は締め切りに迫られての執筆(文芸誌からの依頼)でしたが、そのプレッシャーをいい方向に向けられたとも認識しております。これで粗削りながらもベースは出来ました。
間もなく所属している「石巻千石船の会」の年一回の総会がございますが、何を置いても出席して、先賢各位と誼を交わしたい所存です。

おはからいにより、本日も厚誼を頂戴しました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

> joeyrockさん
ありがとうございます。本作は当初は雲を掴むような状態だった為、難産に難産を重ねた作品でした。益々このブログをヤフーブログ終了という理由で消すわけにいかないという気になってきました。

この作品はこれで完成ではございません。現在進行形に過ぎません。新たに調べねばならない点も浮き上がり、今後はその作業を煮詰めて参りたい所存です。
お陰様で、今回も格別なるエールを賜りました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

> 布遊~~☆さん
自分が調べなければ誰がやる?という気持ちで取り組みました。ここまでモチベーションを持続できたのも祖父母を始めとしたルーツのお陰です。
この作品を書いてまだまだ調べなければならないことが多いのに気づきました。それだけでも大きな収穫でした。今までさして気づいていなかった「全てに感謝する気持ち」が自然と湧き上がってくる気が致します。

おはからいにより、本日も真摯なコメントを頂戴しました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

祖父母から受けた恩が、貴兄の郷土誌発掘への情熱につながっているのですね…。。。

祖父方の大川家の方が、あらかた見えてきたので、これからは祖母方の横町家の調査が楽しみですね…。。。

ライフワークの進捗を心から願っております…。。。

URL | boubou ID:79D/WHSg[ 編集 ]

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> ヤスミンさん
歴史もの執筆には入念な下調べが不可欠です。今回も数年前から調査し、機が熟したのを見計らって執筆に入りました。大きな流れが定まれば一気に書けるのですが、それがなかなか見えて来ないうちはペンが進まないのです。特に横町家のほうは難しく、もう少し解明しなければならない点も多いと思っています。

敢えて完璧に捉われないことにしています。それでも事実は知りたい。今はその狭間でもがいています。このデパートは一度移動してから昭和の後期に壊されています。最初の丸光デパートを覚えているかたもだいぶ少なくなってきました。

おはからいにより、本日も真摯なお言葉を頂戴しました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

> boubouさん
ここまで書けたということはいろいろと調べた甲斐があったというものです。
お言葉ですが、横町家イコール祖母の家柄ではございません。祖母は祖父の嫁に入った人間です。横町家のルーツは曾祖母Mから上となります。養子に嫁をもらったということは自分とは血が繋がっていません。それでも本家を知る意味で今後調べたいと考えています。

今回もご慈悲を頂戴しました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

こんばんは~
自分のルーツや郷土の為に執筆活動
大変なお仕事です。祖父母様からうけた慈愛の心
文章で残された事は後世の宝物になるでしょうね。

長文の投稿素晴らしく感心しました。

URL | ボタンとリボン ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

こんばんは、

ご先祖様の窮地に立たされてもけっして物怖じしない強い精神力を引き継がれた横町さんの反骨精神はこれからも石巻の郷土同好会で更に活躍されることを期待いたします、

どうぞ良い週末をお迎え下さい、

URL | 雲MARU ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

> ボタンとリボンさん
数年かかっていろいろと調べ、ここまで書くことが出来ました。但しこれは叩き台に過ぎないと考えています。

書いたことで課題も浮き彫りになり、今後調べねばならないことがはっきりしました。後はモチベーションを絶やすことなく真摯に取り組んで参りたい所存です。心の拠り所はやはり天国の祖父母にございます。そう仰って頂き痛み入ります。

本日もお励ましを頂戴しました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

> 雲MARUさん
ありがとうございます。自分にとって返しコメントは頂いたコメントと噛みあうのが一番の誼と捉えています。

自分が何故どん底から這い上がれたかを客観するとき、ルーツから受け継いだ血を意識せざるを得ません。今回の執筆でルーツに対して一層の愛着が沸いて参りました。

同時に、四十台の頃の自分に何が不足していたのかを知らしめるのが、例の試練にございます。おはからいにより、今回も格別なるエールを賜りました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

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