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  幕末の旗巻峠で行われた戦い
昨日の土曜日は好天に恵まれた。気温も20度近くまで上がり絶好の歴史探索日和である。私は車に乗って国道6号線を南下した後、福島側から再度宮城側に入った。戦国のころ、伊達と相馬は宿敵であった。このあたりは戦国の世に相馬側の騎馬や歩兵が数多く通った道で重要な拠点だったことだろう。そして伊達と相馬が初めて戦った16世紀から約三百年後の新たな戦がこの地で展開されようとしていた。幕末に行われた旗巻峠の戦いである。

※以下Wikipediaより引用
旗巻峠の戦いは、1868年9月26日に勃発した。戊辰戦争時、仙台藩と相馬中村藩の境にある要所を巡って行われた新政府軍と旧幕府軍との一連の戦いの総称である。戦いの結果、旗巻峠と駒ヶ嶺は新政府の制圧するところとなり、仙台藩は戊辰戦争において初めて領内に新政府軍の侵入を許した。仙台藩は数度に渡り奪還のための兵を送るが、いずれも失敗に終わって藩論は降伏へと傾くことになる。

これは二週間後に開通する予定の常盤自動車道の高架橋である。この道路が開通すれば仙台―浪江間(約100キロ)がわずか1時間で結ばれることになる。

正午を過ぎると気温は20度近くまで上がった。きょうは11月下旬としては思いのほか暖かい一日と相成った。ここが福島と宮城の県境である。
思うに中世から多くの相馬の武士たちがここを通ったに相違ない。

ヤフー航空雨写真で旗巻峠の位置(赤□)を確認して頂きたい。ここが146年前に官軍との激戦があった旗巻峠である。

この原は峠の西斜面であるが、この辺りで政府軍と奥羽越列藩同盟が銃撃戦或いは白兵戦を繰り広げたのではないだろうか?今は平和な原っぱであるがその昔のことを想うと、この壮絶な戦の悲壮感が伝わってくるような気がする。とにかく戦いは熾烈を極めたはずである。

ここはかつて陣屋敷が在ったとされる場所である。藩を率いた将校も槍や刺股などを携えた足軽もここに陣取り、やがて攻めてくる政府軍に備えていた場所である。

旗巻峠での奥羽越列藩同盟軍(仙台藩、庄内藩、米沢藩)と政府軍(薩摩、長州)との兵士の数は2:1だがこの頭数だけで力関係を判断してはいけない。同盟軍の政府軍では兵器がまったく異なっており、最新式の元込め式の銃を持つ政府軍と火縄銃が主力(但し、財力に恵まれた庄内藩は他藩よりも装備が優れていた)の奥羽越列藩同盟軍とでは明らかに火力が異なり、奥羽越列藩同盟側に勝ち目はなかったと言われている。(星亮一著「戊辰戦争と仙台藩」より)

丸森側から太平洋側を望むとこのような位置関係になる。北砲台跡と南砲台跡の位置に着目。奥羽越列藩同盟軍は高台に大砲を据え、峠を登って攻めてこようとする政府軍を迎え撃とうとしたのである。

この峠で、最近読んだばかりの本「旗巻峠の密書」(星亮一著)の表紙のような烈しい戦いが繰り広げられたのではないだろうか?

私の曽祖父が関係(伊達藩の士族救済である石巻大街道開拓事業)したと思われる仙台藩士、細谷十太夫の率いる鴉組(からすぐみ)もこの峠で多くの戦死者を出しながら政府軍と戦ったとされる。十太夫直筆の書も石碑に彫り込まれているとのことであった。

「軍を問わず、戦死者の御霊が安らかでありますように…」私は旗巻峠戦場古碑の前で脱帽し黙祷を捧げた。

陣屋跡から北砲台跡までは300メートルほどである。太平洋も遠望できるような場所である。

もう一度、鳥瞰図をご覧頂きたい。黄色で囲んだ地点が北砲台の据えられた地点である。ここに威力のある大砲を据えられたら、いくら最新式の銃を持った政府軍と言えどもそう簡単には攻め落とせない。そう考えるとこの峠自体が仙台藩に攻め入ろうとする政府軍を食い止めるほどの重要な意味を持った拠点と解釈できる。

どれほどの大砲が据え置かれたのか興味深いものがある。

大砲が睨みを利かせた地点は現宮城県の亘理、山下地区である。

今は鬱蒼とした樹木が生い茂っているが、往時は敵兵が木々に身を隠せないように砲台の周りの相当の樹木が伐採されたものと推測される。

ここは陣屋から八百メートルほど離れた南砲台跡である。奥羽越列藩同盟はこの北と南の二箇所に据え置かれた砲台で政府軍に睨みを利かせたようだ。

峠からやや下ったところには仙台藩士戦死塚もある。

ここは峠を相当下った小高い丘であるが、ここにも慰霊碑が建てられていた。
どうやらこのような慰霊碑、塚の存在は複数に上るらしい。

記録では仙台藩の戦死者のみで庄内藩のことは記録されていないが、或いは庄内藩の戦死者もここに眠っているのかも知れない。

戦場ゆえ、戦死した遺体は数箇所に分けて合葬されたようである。

民家のある麓まで降りた。ここでこのような祠を見かけた。付近の住民のかたに聞いたところ往時、画像の右側のあたりに居を構えていた医者を含めた三名の供養のための祠とのことであった。

この住民は三名とも政府軍に斬首されたと聞き及び、改めてこの戦争の悲惨さを思い知った気がした。

この祠にならんでいたのがこの猫の顔を彫り刻んだ珍しい猫塚である。この丸森地区は往時は養蚕が盛んな土地柄で蚕を食い荒らすネズミを駆除するのに猫が飼われていたと伺った。

戦があったのは146年前である。このような多くの戦死者を出した古戦場には悲壮感さえ漂うのが恒であるが、このような祠を見ると古から伝えられてきた人々の御心を感じる。旗巻峠を訪れやや重い気持ちとなったが、この猫塚の持つ慈愛に触れ、私は幾分救われたような気がした。
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