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 郷里石巻の栄華に思いを馳せる
  エッセイ「郷里石巻の今昔」
つい最近、司馬遼太郎の『街道をゆく』嵯峨散歩 仙台・石巻編を読んだ。同氏は様々な場所で取材に及び、その地の歴史を考察し、ゆかりの先人に想いを馳せつつ、香り高い上質なエッセイを書いているゆえ、私の郷里である石巻についてどう語っているかが気になった。郷土愛と彼への畏敬の念が結びつき、同著への興味が一層増し、読書欲に追い風をもたらしてくれたのである。

彼のエッセイはどれも素晴らしいが、時折史実と違う(伊達政宗の母が仙台を離れ、実家である山形の最上氏に身を寄せ、晩年近くになって政宗に仙台に呼び寄せられているにも関わらず、彼女が仙台に二度と戻ってないように書かれている)ことが書かれているので、このへんはあまり目くじらを立てずに、寛容なる気持ちで読むことが必要であろう。今回はこの作品から私の郷里である石巻の部分を引用させて頂き、私なりの見地で石巻の今昔について想いを馳せてみたい。

さて、1632年『武江年表』によると「諸家深秘録に言う。今年より奥州仙台の米穀初めて江戸へ廻る。今に江戸の米の三分の二は奥州米の由なり」と書いてある。多くの歴史書を相対してみると、大まかに言って往時の江戸で消費される米の半分前後(三割~七割)は仙台藩から出荷された奥州米だったとされる。

『街道をゆく』嵯峨散歩 仙台・石巻によると、伊達政宗死後の江戸時代中期の仙台藩の石高は実質百万石を優に越え、江戸へ出荷された米の石高は三十万石~七十万石にも達したと言う。石巻をこうした港町にしたためた背後には伊達政宗の北上川改修事業にあった。伊達政宗はその大土木事業に際し、大阪冬の陣で浪人となった川村孫兵衞を抱えてその任務に当たらせた。慶長遣欧使節団でヨーロッパに派遣した支倉常長を始め、こうした人選も政宗の優れた先見性を如実に示したものと言える。

伊達政宗は秀吉の国替えで新たな領地となった仙台をこう謳っている。「入りそめて国ゆたかなるみぎりとや千代とかぎらじせんだいのまつ」(意味:私が仙台に腰を落ちつけた以上は、この領国は豊かになっていく一方だろう。このあたりの地名は千代と呼ばれてきたが、この領国の繁栄は千代の松とともに、今から千年以上にも及ぶであろう。)

政宗没後四百年が過ぎようとしているが、この句に異論を唱える者はいない。港町石巻の基盤も、政令都市仙台の基盤も彼の先見によって築かれたのである。それだけこの地は政宗の足跡が偉大であり、今だに宮城県のあちこちに彼のもたらした遺産が所狭しと散らばっているのである。

         伊達政宗(1567~1636)

安土桃山時代から江戸初期にかけての戦国武将。みちのく出羽に生まれ、家督を18歳で継ぐと畠山氏や蘆名氏、二階堂氏などを次々に倒して奥州を制覇。のち、豊臣秀吉に仕えて朝鮮に出陣。関ヶ原の戦い・大坂の陣には徳川方につき仙台藩の基礎を固めた。キリシタンに関心をもち、欧州との通商をもくろみ支倉常長をローマに派遣する。
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さて、政宗の没後の53年後の1689年、俳人松尾芭蕉が石巻を訪ねている。彼は弟子の曽良とともに日和山に登り、往時の石巻を句に詠んだ。「数百の廻し船入江につどい、人家地を争いて、かまどの煙立つ続けたり。云々」これは松尾芭蕉が見たと思われる時期に近い江戸時代中期の石巻(日和山からの眺望)である。

湊側(向こう岸)には江戸に米を運んだ千石船が繋留されている。数日前、松島(現日本三景)で大いなる感動に浸った芭蕉はここ石巻でも港町の栄華という生涯初めての感動と興奮に浸ったのではないだろうか?

         松尾芭蕉(1644~1694

江戸時代前期の俳諧師。現在の三重県伊賀市出身。蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、後に俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人と言われる。彼が弟子の河合曾良を伴い、に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅したのは1689年春のことだった。その内容は紀行文『おくのほそ道』に謳われている。
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次に、幕末の石巻の話をしたい。長州藩士吉田松陰が石巻を訪れたのは1852年のことであった。彼はこの時の模様を『東北遊日記』に残している。彼はその時の石巻の様子をこう表している。「道路は四通八達し、旁径(枝道)多岐なり」この時の石巻には妓楼があり、売春禁止を唱えていた伊達家も例外として認めていたとされる。

彼のこの言葉のように、この時代の石巻は江戸や上方との貿易によってもたらされた経済が活況を呈していたころであった。松蔭はその後脱藩に及び、切腹を言い渡されるが、この『東北遊日記』の一文は幕末の石巻の繁栄ぶりを描いた書としても後世に名を馳せるものとなった。

         吉田松陰(1830~1859)

幕末の思想家。長州藩士杉百合之助の次男に生まれる。山鹿流兵学師範吉田家を継ぐ。江戸に出て、安積艮斎、山鹿素水、佐久間象山らに学ぶ。安政元年下田の米艦に搭乗を計り失敗、投獄ののち生家に幽閉されるが、松下村塾を開き、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋ら多くの門人を育てた。討幕論を唱え、老中間部詮勝暗殺を画策して投獄され、安政の大獄により獄中で刑死する。
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伊達政宗が基盤を作った石巻を後になって松尾芭蕉や吉田松陰が訪れその繁栄ぶりを語った。二人が石巻を訪れたタイムラグは実に163年にも及ぶ。それだけ年数が離れても水運経済によって支えられた石巻の繁栄ぶりは変わらなかった。否、それどころか幕末の於ける産業の活況は藩政時代初期と比して更なるものがあった。

明治維新が終わり、年号が明治に変わると、石巻に今までの繁栄に陰りをもたらす時代の波が押し寄せる。石巻線や仙石線の鉄道の開通によって水運経済はその主役の座を奪われてしまうのである。但しそれによって石巻が一気に衰退の一途をたどったのかというとそうではない。近代からは遠洋漁業の港として新たなる顔を持つようになるのである。こうしてその繁栄は昭和四十年代までは続いた。

※震災前に於ける石巻の繁栄

昭和五十年代に入ると経済不況で遠洋漁業も縮小を余儀なくされ、かつての栄華に陰りが出始めるようになる。ここで、私事で恐縮であるが私の祖父が昭和41年に亡くなっているので、祖父はその後の石巻の陰りにさほど接することなく世を去ったと感じている。経済不況による斜陽傾向が続く中、2011年に大震災が起こった。郷里石巻の都心部は津波によって壊滅的な被害を受けた。石巻人としては胸が張り裂けるような思いである。四百年ほど前、名君伊達政宗公がその基盤を創った港町石巻。かつて栄華を誇った郷里石巻の一日も早い復興を祈念して止まない。
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