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  エッセイ「生き残った小国」
本日、数年前から引きずってきた或ることが和解に至った。和解といえば如何にも聞こえがいいが私の主観の中ではけして和解していない。妥協という言葉のほうが適切なのかも知れない。詳しくは述べられないがここに来るまで多くの苦痛と困難があった。私の心の葛藤の心境はこれまで自作エッセイの書庫の「怨讐を恩讐に変えたい私」や「上州長脇差の心意気」や「口髭とともに生きる」などに綴ってきた。視点を変え、今回のことを客観的に見るならば和解と言えるのかも知れない。

つい最近或るかたから「横町さん、多くの事物で和解に至るには多少の妥協が必要ですよ。自分の主張だけを通すのはなかなか難しいことですよ。」と言われた。まさにこの言葉通りの本日の妥協であり、妥協あっての和解であった。

私は小国の主である。小国が大国の取り潰しを免れるにはごく当たり前のことだけをやっていたのでは役不足である。小国が相手の言いなりになった段階で勝負がついたも同然である。小国が大国に潰されないためにはそれなりの大義がなければいけない。そんな私にとっての大義は論語を礎にした儒教精神である。孔子は論語に於いて礼節の重要さを説いている。

きょうはその奥義を日本の国技である相撲を例にとって説明したい。舞台は結びの一番、片や横綱、方や平幕が土俵に上がる。この時両者は同じタイミングで手刀(力士にとっての礼)を切るのだが、これは番付に関係なく同等にかつ公平に行われなければならない。

これが神聖なる土俵に上がる対戦相手への尊敬の証であり、相撲道に於ける礼節というべきものである。そしてこの精神こそが先に述べた儒教の心であり、論語の意図するものである。しかるに礼節のない者は例え横綱とて土俵に上がる資格がないのだ。
私はこれを己の大義として主張した。この大義がどれだけ通ったのかは判らないが、少なくとも己の鎧兜となってくれた。そしてこの鎧は敵の槍も刀も鉄砲も通すことはなかった。こうして小国の主である私は首を取られることなく、大国からの取り潰しを免れるに至ったのである。

こうした経緯を経て小国が生き残れたのはある意味で奇跡とも言える。それゆえ感謝しなければならないことなのかも知れない。今宵は長年に渡たる心の垢を落したかった。そして勝ち得たこの和解を心から祝したかった。私はその大義を大石内蔵助の忠義に合わせ、「清酒くらのすけ」を一気に煽った



大石内蔵助(1659~1703)
1659(万治2)大石良昭の長男として生まれる。
1673年(延宝元年)父良昭が亡くなり祖父の良鉄の養子になる。
1677年(延宝5年)祖父良鉄が死去。赤穂藩の家老見習いになる。
1679年(延宝7年)21歳で正式な筆頭家老になる。
1701年(元禄14年)主君浅野長矩が松の廊下で刃傷沙汰を起こす。
主君浅野長矩切腹。浅野家お家断絶。1702(元禄15)
吉良邸討ち入り。1703(元禄16)切腹。享年45
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