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 私は一体どこから来たのか?
私が家系図の作成に取り組んでから数年経つ。その動機は祖父母への深い敬愛と郷土愛である。菩提寺の過去帳からわかったのはミック家の先祖がある側室(妾)を祖としていることである。一体誰の側室であったのかは定かでない。ただ言えるのは屋敷のあった場所は当時石巻では商業に適した利便性に富んだ要衝の地(辻)であった。

そして子共が居なかったこの女性(私の曾祖母)の養子に入った人物こそが私の祖父であり、その嫁が祖母である。こうした場所に屋敷を賜った曾祖母(私とは血が繋がっていない)とは一体誰の側室だったのか?何れにしても士族か大商と思われるが、郷土史に名前を残した人物でない限り、釈明は難しいところである。

私はこうした理由で進まぬ家系図作成に、つい最近もう一つの鍵を見出した。それは血の繋がりのある祖父のルーツをたどることで、あることが推測できたことである。その根拠となったのは本日の一本の電話であった。私の父の従兄弟にあたる人物(以下A氏)が存命で彼の言葉で今まで知り得なかった事実がわかってきたのである。但し過去帳は私の父方曽祖父からしか記入がないゆえ、A氏の推論の域を出ないことをお断りしておく。

この推論には二人の仙台藩士が登場する。A氏によると私の祖父のルーツはこの二人の何れかに使えたか或いは両方に使えた(二人が活躍した時代が全く異なる)下級武士(足軽)の可能性があるというのだ。これは祖父の名字からも十分伺えることである。きょうは祖父のルーツたる人物がどんな仙台藩士に使えた可能性があったのか?についてお伝えしたい。

        ケース1:川村孫兵衛重吉(1575~1648)

以下貞山運河事典より引用しミックが編集

天正三年長州(山口県)に生まれる。毛利家に仕え、二十代前半、伊達政宗に抱えられ家臣となる。治山治水に優れた技術を発揮、政宗の命令で北上川改修工事の責任者となる。工事は1616~1626に至り、工事費捻出のため自ら借財に及ぶ。工事現場に泊まり込むなどして労苦を重ねる。

この大改修により石巻から盛岡に至る舟運が開かれ、葛西家滅亡後寒村に過ぎなかった石巻は一躍米の集散地となる。河口周辺には仙台、盛岡、一関、八戸各藩の米蔵が立ち並び、江戸へ米を運ぶ千石船が往来繁栄を極めた。治水に伴って流域では三十三万石余の新田開発も行われ、地域の発展に多大なる恩恵をもたらす。工事完成後は石巻に住み、慶安元年74歳で世を去る。

彼は石巻、否仙台藩では英雄である。A氏によると祖父のルーツは彼に使えた車力(労務者)である可能性があるということである。

川村孫兵衛によって大改修が行われた北上川、改修以前は左上の上流からもう一本の川が伸びてきており、二本に枝分かれしていた。往時の北上川は大雨の度に氾濫を繰り返す暴れ川であった。

ケース2:細谷十太夫(1845[一説には1839]~1907)

以下コトバンクとWikipediaより引用しミックが複合編集

幕末維新期の仙台藩士。本名は細谷直英、武一郎とも称す。からす組の首領。家禄50石。のち小姓頭に抜擢,加増により250石。幼にして両親を失うが身体屈強にして剣槍弓銃の技に長じる。1868年官軍の奥羽征討に対し普請方より遊撃隊に転じ白河城攻防に臨戦。白河城にほど近い須賀川で士分以外の強壮無頼の大親分を含むヤクザ、剣客、鉄砲打ち)集め縦横無尽の活躍をする。暗夜に黒装束を着て敵陣を攪乱たところから別名からす組と称しゲリラ戦を展開する。新政府軍への襲撃回数は30数回に及び、その全ての戦いに勝利した。その後十太夫率いる「からす組」は、列藩同盟軍の主戦力とな

         ※彼が着ていた「からす組」の半纏

その後仙台藩の降伏に伴い家禄没収蟄居を命ぜられたが藩より一千両を奪い取り家来に分け与えた上で脱走明治1872年恩赦後、1880年(明治13年)より門脇村(現石巻市大街道)に開墾場を開設、初代場長に就任、開拓事業を行う。その後、1882年(明治15年)開拓使権少主典に任じ部下を率いて北海道に赴き開拓に従事する更に1894年の日清戦争で陸軍少尉となり、中国に渡って千人隊長として活躍した。帰国後警視庁小隊長となるがその後は身をじて仙台城下竜雲院の住職となる。明治40年(1907年)5月6日、63歳で波乱の生涯を閉じる。法名は「竜雲院八世鴉仙直英和尚」

       ミックコメント
私の先祖がケース1かケース2に関係したのかはよくわからないものの、A氏によると代々語り継がれてきたことと言うことである。但し文書がないので推測の域を出ない。ここではっきり言えるのは祖父生誕の地が1880年の細谷十太夫の開墾によってもたらされた農地であったことである。(私の祖父は1891年ころの出生)

それ以前はただの荒地(湿地)に過ぎなかったゆえ、十太夫が明治維新後の士族救済で職を失った下級武士(足軽)を連れてきて農地を与え、私の先祖はその恩恵に授かった可能性が十分あるということである。その場合は、私の先祖が仙台藩の下級武士(足軽)であったことが考えられる。

川村孫兵衛の従者であった説は細谷十太夫とはまったく年代が異なるゆえ、そのルーツに於いて各々、この二人の仙台藩士に使えた可能性も否めないところである。A氏とは近いうちに逢って一族の様々なルーツ談義に及ぶ所存である。何れにしても祖父かたのルーツは仙台藩に深く関わった人物に相違ないと受け止めている。
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