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志賀直哉に影響を与えた祖父直道と相馬事件
きょうは①志賀直哉の祖父が巻き込まれた相馬事件についてと②志賀直哉と祖父直道の関係について資料を基に述べたい。

相馬事件概要(Wikipediaを基に私が編集)
相馬藩(旧中村藩主、相馬誠胤(そうまともたね)統合失調症(推定)の症状が悪化したため、1879年に家族が宮内省に自宅監禁を申し入れ、以後自宅で監禁、後に癲狂院(現在の精神科病院に相当)へ強制入院させられた

相馬誠胤1852~1892)幕末の大名。陸奥中村藩の第13(末代)藩主。相馬氏第29代当主。前藩主相馬充胤の次男。初名は季胤(すえたね)。通称は吉次郎、吉太郎。官位は従五位下因幡守。明治に入り、贈正四位子爵。1869年に中村藩知事になった。1871年廃藩置県により、知事免職とな



1883年、旧藩士の錦織剛清(にしごりたけきよ、1855~1921主君の病状に疑いを持ち、家族による不当監禁であるとして家老志賀直道(志賀直哉の祖父)ら関係者を告発した。告発を行った錦織に対し、世間からは忠義者として同情が集まった。当時は精神病の診断も未熟であり、高名な大学教授等による精神病の診断がまちまちの結果となった。正常との判断を下す医師もおり、混乱の度合いが増すこととなった。



1887年、錦織が相馬誠胤が入院していた東京府癲狂院に侵入。相馬誠胤の身柄の奪取に一旦は成功するものの一週間で逮捕。錦織は、家宅侵入罪に問われ禁錮処分を受けるとともに、偏執的な行動が批判を受ける。1892年、相馬誠胤が糖尿病で病死。錦織はこれを毒殺によるものとし、年、再び相馬家の関係者を告訴、土葬された遺体を発掘して解剖し毒殺説を裏付けようとした死因毒殺と断定できなかった。

相馬家側から誣告罪で訴えられた錦織は重禁錮年の刑が確定するに至った。このとき共謀者として支援者である後藤新平も訴えられ半年間収監されたが、無罪で放免された。明治25年(1892年)10月25日には、「神も仏もなき闇の世の中」という相馬事件に関する本を発行し、当時のベストセラーになった。

 

本書は口語文で書かれているので非常に読みづらいが錦織剛清が世間に真相を訴えるために書いた告発的な著物である。

ここで志賀直哉と父志賀直温、祖父志賀直道について紹介する。(Wikipediaから引用し私見を加えた上で編集)

※左から祖父直道、父直温、直哉



※志賀直道(しがなおみち、1827~1907)
志賀直哉の祖父、若年時は二宮金次郎に師事する。旧相馬中村藩主相馬氏の家令を勤め、古河財閥創始者古河市兵衛と共に足尾銅山の開発をし、1892年(65歳時)相馬事件に係わり七十数日間拘留されたが無罪釈放される。 

志賀 直温(しがなおはる、1853~1929)
志賀直哉の父、陸奥相馬中村藩家老職の志賀直道の子として生まれる。1868年父とともに戊辰戦争に参加する。1871年上京し、尺振八の塾に入り、共立学舎から慶應義塾に入学。第一銀行石巻支店長を経て総武鉄道株式会社の創立に参加。敷地約1600坪の東京麻生に300坪の大邸宅を築き実業家として名を馳せる。

※志賀直哉(1883~1971)
白樺派を代表する小説家のひとり。代表作は『暗夜行路』、『和解』、『小僧の神様』、『城の崎にて』など。強靭な個性による簡素な文体は、散文表現における一到達点に達する。小説文体の理想のひとつと見なされ評価が高い。 

本記事は阿川 弘之著『志賀直哉』から相当の部分を引用したため阿川 弘之も紹介したい。
 
阿川弘之(1920~2015)



小説家、評論家。東京大学を三年間でスピード卒業後、太平洋戦争に従軍。戦争より帰還し文学を志す。志賀直哉に師事する。広島県名誉県民。日本芸術院会員。日本李登輝友の会名誉会長。文化勲章受章。代表作に、『春の城』『雲の墓標』のほか、大日本帝国海軍提督を描いた『山本五十六』『米内光政』『井上成美』など。エッセイスト阿川佐和子の父。

コメント(阿川弘之著『志賀直哉』を基に自論を加えて編集)
志賀直哉と父、直温との不仲は有名で、その確執は「和解」や「暗夜行路」、「大津順吉」、「山形」など多くの作品に登場する。直哉の愛弟子である阿川弘之氏によると一時はお互いの死を願うところまでいったとされる。大正6年(直哉34歳時)父との和解が成立するが、直哉と父は和解には及んだものの、終生に渡ってお互いの心情を理解することはなかったという。

阿川氏はその理由として、直温が己の築いた財を一族の繁栄にだけ向け、直哉が歩もうとしていた文学者としての道を認めようとしなかったこと、直哉と女中との結婚を身分の違い(志賀家は士族で女中は平民)を理由に認めなかったことを挙げているが、真相は性格的にお互い自我が強いため、何から何まで馬が合わなかったためであったようだ。但し直哉は祖父直道は尊敬していた。阿川氏によると彼が尊敬する人物は師に於いては内村鑑三、友人に於いては武者小路実篤、身内に於いては祖父の直道であった。そういう直道は大柄でいつでも鷹揚に構え、武士を絵に描いたような気丈さと風格を兼ね備えた人物であったとされる。

直道の孫である直哉が生誕の地である石巻から東京に帰って来た時、直道は58歳(直哉は2歳)であった。直哉は物心ついたころから祖父直道に可愛がられ、冬の寒い晩は祖父の布団に潜り込み、祖父に抱かれて眠りについたという。但し祖父は無口であったため直哉に多くのことは語らなかったとされる。

相馬事件が起きたのは直哉が9歳の時であった。突如として祖父直道が主君相馬誠胤毒殺の容疑者として拘留されることとなった。慮外千万の出来事が志賀家を揺るがした。七十数日の拘留後、無事に直道は無罪釈放となり、麻生の三河台の家に戻ったところ、直哉はショックのあまり物陰に隠れたという。「直哉はどうした?」との直道の声に皆が気づき探し出されて座敷に連れてこられた直哉は祖父の顔を見るなり声を上げて泣き出した。

但し寡黙な直道は後に及んでも、このようなエピソードを家族や直哉の前で話すことはなかったという。従って直哉の作品にこの相馬事件に関することは一切出てきていない。直哉に残ったのは祖父へのいたわりの気持ちとないことをあるように書かれた新聞社への不信感であった。

文豪の多くは幼少時に祖父母から多大な影響を受けたケースが多いとされる。こうして直哉と祖父直道の関係を見るとそのパターンが当てはまるような気がする。寡黙で多くを語らない直道は志賀家の主としてどっしりと構えつつ、子孫を静かに見守る人物であったようだ。但しそんな直哉も生涯で一度だけ?直道から叱られたことがある。

それは19歳の時、友人とともに三日間放浪し家に帰らなかったとき、直哉が居候になったところに届けられた手紙である。手紙には論語からの引用がなされ「子曰く、父母在せば、遠く遊ばす。遊ぶには必ず方あり。云々」(老いた父母がいるうちは遠くに遊びに行かないようにする。遊びに行く時は必ず行き先を告げること。)と書かれていたという。まさに二宮尊徳の弟子たる直道の深い教養が浮かばれる出来事であった。
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