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 幼君亀千代を毒殺から守った政岡の廟所
先月末の8月29日は偶然にも寛文事件(伊達騒動)に関係した伊東七十郎の墓所を発見しブログに発表したばかりであるが、きょうはまたしても偶然に三沢初子(通称政岡:4代仙台藩主伊達綱村の生母)の廟を発見するに至った。寛文事件は昨年末ころから研究を進め、歴史エッセイも書いていた折であったゆえ、何か因縁めいたものを感じている。

この建物は政岡廟案内所である。詳しくはわからないが、筋から行くと伊達家の持ち物であろうか?もし後に調べてわかった際は記事を訂正したい所存である。この建物に「見学希望者はここに電話してください」と張り紙がしてあったので早速携帯電話からかけてみた。すると管理をしている孝勝寺という寺のお坊さんと思しき方に繋がり「今から廟の鍵(普段は施錠されている)を開けにいくので5分ほどお待ちになってください」と言われた。

こうして鍵を開けて頂き中に入ることとなった。一名にも関わらず嫌な顔一つせずに対応頂いた孝勝寺様にはこの場を借りて深く感謝申し上げる次第である。

ところでこの木は欅だろうか、樹齢から言って江戸時代以前?の老木と見られるが注記などはなかった。或いは歴史の生き証人なのかも知れない。

赤で囲んだところが政岡廟である。JR仙石線榴ヶ岡駅から南へ徒歩2分。

明治になってから作り直された墓所には仙台藩に関係する五人の女性が眠っている。鬱蒼とした林に覆われているので参道はやや薄暗い。

三人の女性についてこのような説明書きがあった。

これは一番入り口側にある振姫の墓である。
徳川氏振姫(1607~1659池田輝政と督姫(正清院の姉)の娘、徳川秀忠の姪で養女。後に二代仙台藩主伊達忠宗の正室となる。

これは中央に位置する仙姫の墓である。
稲葉氏仙姫(1659~1706)小田原城主稲葉正則の娘三代将軍徳川家光の乳母であった春日局のひ孫に当たる。後に四代仙台藩主綱村の正室となる
墓は元々青葉区小田原の万寿寺にあったが、1955年になってこの地に移された。

そしてこれが三沢初子(政岡)の墓である。
三沢初子(1639~1686)※コトバンク、仙台市HPより引用しミックが編集

江戸中期の歌舞伎浄瑠璃「伽羅先代萩」の政岡のモデルとされる。実在の初子は鳥取藩士三沢清長の娘。江戸前期仙台藩主伊達綱宗の側室となり世子亀千代(代藩主綱村)を生んだ。綱宗が幕命により不品行を理由に隠居させられ、歳の綱村が跡を継ぐと万治・寛文年間(1658~1671)伊達騒動が起きた。それをもとに演劇小説が書かれ初子をモデルに忠義者の乳母政岡像が描かれたといわれる。
 
初子は山陰の尼子氏重臣である三沢清長の長女で主家滅亡後江戸に移る。13歳のとき父が亡くなり二代藩主伊達忠宗夫人振姫の老女をつとめる叔母により伊達氏に仕え三代藩主綱宗の側室となる。四代藩主綱村(幼名亀千代)を含め子の母となる。

歌舞伎、浄瑠璃の世界(伽羅先代萩)では彼女は仙台藩を乗っ取ろうとする勢力(伊達兵部、原田甲斐ら)から幼君亀千代を死守する母として描かれている。この表情からは如何にも慈悲深いものが伝わってくるような気がする。

しかし伊達騒動ほど深層解明が難しい事例も珍しい。幕府という絶大な権力には外様であった仙台藩は真実を隠さざるを得なかったのだが、ここが大きな謎でありロマンを感じるところである。



初子の詠んだ句がこうして石に刻まれていた。「一ふしに 千代をこめたる 杖なれば つくともつきじ 君のよはでは」まさにわが子亀千代を守らんとする母性愛に溢れた句と承わった。彼女の献身ぶりは伊達安芸公の尽忠にも匹敵する仙台藩の誉れと言っていいのではないだろうか?

これは政岡廟が作られた当時の山門であるが、後に故あって青葉区小田原の成覚寺に移設されたものである。

成覚寺の山門の門構えを御覧じろ(ご覧頂きたい)。私はこの山門を見るにつけ「伽羅先代萩」に謳われる通り、彼女は仙台藩に生涯を捧げた人物であったと信じたいのである。
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