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 烈士伊東七十郎墓所を訪ねて
去る8月23日(土)のことだった。仙台市南東部に位置する霞目で横綱谷風の墓を訪れた私はその帰り道に市営バスに乗り、若林区新寺地区を訪ねた。目的は寺巡りである。一つ目の寺を見終わった私は駅のほうに向かった。すると歩くこと数百メートルで由緒のありそうな古刹の前を通りかかった。寺の名は栽松院である。

都心の中の寺町なのにミンミンゼミの鳴き声が賑やかである。緑陰が束の間の涼をいざなう。夏の盛りは過ぎたとはいえ、秋にはまだ早いといった風情である。

この寺にどんな人物が眠っているのだろう?と思い、ふと山門脇の石碑を見ると「烈士伊東七十郎重孝一族菩提所」と刻んであった。私がこの日こうして伊東一族の菩提所を見つけたのはまったくの偶然であり、私は大いなる感動を覚えつつ、何らかの因果を感じた。果たして彼は通りすがりの私を呼び止めたのだろうか?

伊東七十郎は伊達騒動(寛文事件)に関わり、仙台藩乗っ取りを企んだ伊達兵部の暗殺を図りながらも密告によって未遂に終わり処刑された人物である。

1970年NHK大河ドラマ「樅ノ木は残った」での伊東七十郎は俳優伊吹吾郎氏が熱演したものでまさにはまり役であった。人を見据えるような眼差しからは豪快で酒を好み、女にもてたとされる彼の気骨が表れている。

伊東七十郎(1633~1668)
祖父である伊東重信は、戦国時代に伊達政宗に仕え、天正16年の郡山合戦において政宗の身代わりとなって戦死している武功ある家柄であるが本人は仙台藩平士であった。京都や江戸で国学や兵学を学び、文学にも通じるとともに体力に優れ、武芸にも通じ、生活態度は身辺を飾らず、その内面に烈々たる気節を秘めた直情実践の士とされる。

※伊東家の家臣である鷺坂の陰謀で捕まった伊東七十郎。無双とも言える剛力だっただけに5人がかりの捕物となった。(大河ドラマ「樅ノ木は残った」より)

伊達氏仙台藩の寛文事件において、伊達家の安泰のために対立する一関藩主である伊達兵部を討つことを甥である伊東采女重門と謀ったが、事前に計画が漏れて捕縛され寛文8年(1668年)4月28日、誓願寺河原にて斬首される。彼は事件後は罪人として扱われ一家は流刑、禁固となったが、後に4代藩主、伊達綱村から忠節を理由に伊東家再興を認められた。

彼は処刑される四日前に『人心惟危 道心惟微 惟精惟一 允執厥中』云々という言葉を直筆の書に残している。絶筆となった彼の書の「誠」や「執」の字の跳ね具合に着目して頂きたい。烈士らしい信念に満ちた力強い筆跡である。またこの言葉の出典は中国の書経であり、彼の教養の深さが十分に伝わるものである。彼は烈士でありながら文武両道に秀でた武士であった。

ところで「書経」に書かれたこの人心惟危 道心惟微 惟精惟一 允執厥中意味は『人の心は肉体があるから、物欲に迷って邪道に陥る危険があり、本来人に備わってる道義の心は物欲に覆われ微かになっている。それゆえ人心と道心の違いをわきまえ、煩悩にとらわれることなく道義の心を貫き、天から授かった中庸の道を守っていかねばならない。』というものである。
※諸橋轍次編集「中国古典名言事典」より

まさに彼はこの言葉通りに煩悩を捨てて道義(仙台藩存続のために伊達兵部を討つ)に生きた武士の中の武士であった。

※栽松院の境内には樹齢1000年以上と言われるシラカシの木が植えられていた。もちろんこの木は七十郎が葬られた時の一部始終を見守ってきたに違いない。歴史の生き証人と言っても言い過ぎであるまい。

航空写真で栽松院の位置を確認して頂きたい。新寺通りではやや南の奥に位置しているもののここから仙台駅へは徒歩十分少々といった地点である。

伊東家一族の中央に彼の墓はあった。後に作られたと見られる焼香台と花立があるが遺族の図らいと承った。寺の中の他所から移設を経てここに収まったとみて良いようだ。

左側の字に注目して頂きたい。伊藤七十郎重孝と確かに読み取れた。ブログ仲間であるロッソさんによると、この戒名は罪人として葬られた時はなく、伊達家から伊東家再興を認められた後に彫られとのことである。

墓石の刻字から左隣は彼の叔父であった伊東新左衛門の墓らしい。私は最後脱帽して深々と頭を下げた。侍の数は多けれど烈士と言われた人物は少ない。主君はなくても藩存続という大義に命を捧げた烈士伊東七十郎。私も小事に拘らず彼のような剛毅な生き方にあやかりたいと思った。
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