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 仏教美術に心服した若き日の和辻哲郎
 きょうは和辻哲郎著物「古寺巡礼」について紹介する。当時28歳の和辻が二三人の友人を伴い、奈良近辺の古寺を見て回ったのは大正六年(1917年)五月のことだった。この著物は後になって出征し生還するのが難しい兵隊さんからの需要が相当あったと聞く。

 私自身にも思い当たる節があるのだが、煩悩に苛まれ苛立った折、こうした仏閣や仏像に接すると知らず知らずのうちに心が静まるのはなんとも不思議なことである。

伝記『和辻哲郎」著者である小牧治によると、和辻は仏教の精神を生かした美術に心服しただけで宗教的に仏に帰依したというわけではないとしている。古美術の力を享受することによって己の心を洗い、富まそうとの考えがあったというのだ。
これは無神論者である私にと似た考えである。

和辻は仏像に対して深い造詣を示している。『和辻哲郎』では二体の仏像に関する和辻の視点が記されている。

①聖林寺十一面観音(左)
 円く肉づいた頬は肉感性の幸福を暗示するどころか、人間の淫欲を抑滅し盡(つく)そうとするほどに気高い(中略)この顔を受けて立つ豊かな肉体も観音らしい気高さを欠かさない。それはあらわな肌が黒や金に輝いているためばかりではない。肉付けは豊満でありながら、肥満の感じを与えないのである。四肢のしなやかさは柔らかい衣の皺にも腕や手の円さにも十分現されていながら、しかもその底に強靭な意力(精神力)のひらめきを持っている。

②中宮寺弥勒菩薩(右)
 日本の自然は愛らしく、親しみやすく、優雅であると同等に神秘である。これを人体の姿にすれば中宮寺弥勒菩薩像になるほかはない。我が国の文化の考察は結局我が国の自然の考察に帰って行かなくてはならぬ。

このあたりは単なる古美術鑑賞というより哲学的な見地からの視点に基づいたものとなっている。

      ミックコメント
 昨年の初夏、庄内酒田に日帰り旅行した際、土門拳記念館で展示写真に「古寺巡礼」というコーナーがあるのに気付いた。写真家から見た仏閣や仏像は極めて興味深く私の心に映った。作品一つ一つには圧倒的な存在感があり崇高な印象を受けた。

 その感動を今度は著物でと探していた時にこの本に出会った。哲学者である和辻が古寺や古美術に興味を持つのは意外な気がするが、彼の倫理学の根本には我が国の伝統文化への憧れや無私への帰属があるように思われる。

 ここ数年のうちに私の趣味の一つになった寺社仏閣巡りであるが、心に平穏をもたらす意味に於いては恰好の趣味と感じている。古寺巡礼を宗教的な視点で捉えるのも悪くないが、これを無我の境地への道標に用いるのも一興と心得る。
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