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 独眼竜政宗オープニング 
昨日から八月に入った。今年も残すところあと五ヶ月となったが、けして後悔することなく精一杯人事を尽くし、ご先祖様に恥ずかしくない道を歩みたいと思っている。

さてこのそれがしの出で立ちは昨年の11月3日、故郷石巻で行われた伊達武者行列(サンファン館再オープン記念行事)に参加した時のものである。この時は政宗の家臣であった大内定綱に成りきった日でもあった。

大内定綱
西国の周防大内氏の末裔とされる。定綱の祖父は優婆塞(修行者)で月山辺りに巣食っていた山伏が居着いたのではないかと言われる。大内氏は定綱の父、義綱の代に塩松や小浜(何れも福島県中通り)に進出し、地侍を次々に攻め潰して小手森、月山、岩宿、新城、撫山、月館の領主となり、隣国の田村氏の内応工作に応じて主君石橋尚義を追放し、塩松領主となって田村氏の旗下に属した。

その後家督を継いだ定綱は、伊達傘下に入り相馬攻めに度々従軍した同じ頃、定綱は二本松城主畠山義継の子国王丸に娘を嫁がせ血縁関係とする。畠山義継と結んだ定綱は1583年、田村領の百目木城主石川光昌を攻撃、田村氏と対立していた蘆名盛隆の支援を受けて田村清顕を破り独立を果たした

1584年政宗が伊達家の家督を継ぐと、定綱は政宗の家督襲名の席に真っ先に訪れ、伊達氏への奉公を表明している。これは伊達家の力を評価しての行動であり、政宗の器量を伺いに来たとも思われる。しかしここで政宗はまんまと一杯食わされるのである。すぐ戻ると称し自領(塩松)に帰った彼は二度と米沢には戻らなかったのである。「定綱は伊達を舐めている。定綱討つべし!」、背任を働かれた政宗はもちろん、伊達家の家臣はくせ者定綱に激しい嫌悪と怒りを露にした。

年の1585年、政宗は田村氏に加担して定綱を攻撃し、小手森城で撫で斬りを行うなどして定綱を追い込んだが、定綱は小浜城を放棄して二本松へ逃れ、更には会津の蘆名氏を頼った。3年後の1588年、郡山合戦の際には蘆名氏の部将として苗代田城を攻略するが、伊達成実(伊達政宗の従兄弟)の誘いに内応し、三たび伊達氏に帰参することとなった。その後定綱は伊達家重臣として仕え、政宗に二度と違わぬ忠誠を誓うこととなる。

※大内定綱(1545~1610)

片倉小十郎などのように終生に渡って伊達家に忠誠を貫いた武将も悪くないだろう。だがそれがしの生き方とは違う。それがしはもとより波乱万丈の人生を歩む人間と心得ている。ゆえに片倉小十郎よりも大内定綱のような生き方が本望と心得る。

政宗公に忠誠を誓う大きな理由は天下取りに賭けたその身上である。主君が天下を狙うのであれば家臣はこれをこの上もない名誉と捉え、その生涯を捧げなければならない。従ってけして「迷い」という文字はないのである。

先祖を伊達藩に仕える身としたことを名誉と心得る。それゆえいつでも合戦に赴く用意が出来ているのだ。

伊達に仕える身を先祖から賜った使命と受け止めている。この使命を果たすなら明日の命さえ欲しくないと心得る。
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