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明治の頃丸森町の産業を支えた製糸工場
去る7月26日(土)相馬野馬追見学に臨んだ私は伊達と相馬の古戦場を見に宮城県伊具群丸森町に向かった。この道路は国道113号線。真ん中の小高い丘がかつて金山城(要害)のあったところである。

実はこの金山城のあった近く(川向こう)に明治から昭和初期にかけてこのような製糸工場があったというのである。この製糸工場はパルプから紙を作るほうの製紙工場ではなく、蚕から糸を作る工場のほうである。

その工場の名は佐野製糸工場である。

金山の部落に入って間もなく西に入り橋を渡るとこんな石垣の擁壁が現れた。かなり古そうな石垣である。

航空写真で佐野製糸工場跡地を確認して頂きたい。(赤○の部分)

この製糸工場は解体されて今はなく、このような田んぼになっている。この石垣だけが往時の面影をかろうじて残すのみである。

佐野製糸工場の概要は次の通りである。

佐野製糸工場
1885年、政商小野組で東北地方での養蚕業を担当していた佐野理八が、1874年の小野組破産後、すでに経営していた、福島二本松製糸場を譲り、交通の便がよく、養蚕が盛んな金山に戸長の協力で独力で製糸場を創建。1886年、フランス製最新製糸機械を導入し、操業を開始。年間3000貫の生糸を生産、博覧会で優秀賞を受け、国内外、欧米までにも知られるようになった。 


女工は、200人余りで、寄宿舎生活、1020代が多く、地元より新潟、滋賀などの遠隔地出身者が多かった。大正時代中期以降の世界不況により、経営不振が続き、休業・買収などを経て、1937年(昭和12年)完全閉鎖となる。

時代は大正から昭和へ。この頃になると化学繊維に押され養蚕、製糸業は徐々に衰退していくことになる。

製糸場に隣接する瑞雲寺(曹洞宗)の境内の一隅に、女工の墓が立っている。新潟、滋賀出身者が多いとされた女工さんがこの瑞雲寺の一画に眠っている。彼女たちは出身地に帰ることなく宮城県南部の辺境の地に眠っている。それを思うとなにか寂しい気持ちがする。尚、瑞雲寺は金谷城主の中島氏(伊達武将)の菩提寺でもある。


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