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泥濘地にはまって首を刈られた伊達武者たち
昨日の7月26日、相馬野馬追を見物した私は帰りがてらに宮城県の丸森町に立ち寄った。その動機となったのは一冊の書籍紫桃正隆著「みやぎの戦国時代 合戦と群雄」である。

時は1576年8月末である。伊達と相馬が激しく争っていたころである。ちなみにこの時政宗はまだ9歳で元服前で出陣していない。恐らくこの日はきょうのように猛暑に見舞われたのでないだろうか?文中に「細道や橋から落ちると首を刈られるばかり」とあるが、この時代の武者にとって合戦で首を取られることは日常茶飯事であり、武士ならば覚悟せねばならないことであった。

これは小斉物見櫓から望んだ広大な角田盆地である。矢野目館(伊達の平城)は左側から6:4ほどのところに見える林に囲まれたところである。

赤□:矢野目館(伊達)、黄色□:小斉城(相馬)、黄色○:金山城(相馬)
黄色△:丸山城(相馬)まさに両軍とも意地を賭けての激突であった。

まったく偶然にも昼食をとった食堂に地元の町内会区長が居られ、そのかたに矢野目館訪問の希望を話したところ、わざわざ案内して頂き、またオーナー様への取次ぎをして頂いた。その町内会区長様にはこの場を借りて厚く御礼申し上げる次第である。

ここが矢野目館のオーナー様宅(二軒のうちの一軒)である。

これはオーナー様自らが自費を投じて作った石碑である。

数年前まで小学校の校長をされていただけあって、オーナー様は矢野目館のこのような概要を文書に綴って居られた。

これは池であるが当時の堀と見られるものである。今残っている堀らしきものはここの敷地北東部のみである。

拡大航空写真で矢野目館跡をご覧頂きたい。

オーナー様の説明によるとこれは敷地西側にわずかに残る土塁とのことである。

「合戦と群雄」によると小斉城の南側の並びにはこのような要塞にはうってつけの場所があり、相馬側が既にこの拠点を押さえ、既に張り込んでいたということであった。オーナー様には念入りの挨拶に及び、ご厚意に感謝する旨を申し伝えた。

矢野目館より金山城方面を覗いてみた。囮によって拙攻に至った伊達側は相馬義胤の居る金山城に迫ったものの、金山城近辺やこのあたりの山城に潜んで待ち伏せしていた相馬武者に不意を突かれ形成逆転に及び、敗走するに至った。まさに伊達の騎馬隊は相馬側の策略にはまったのである。

最後に同館を敷地北西側から望んでみた。相馬側の奇襲を受けた伊達の騎馬隊の多くは泥濘地を原っぱと勘違いして突っ込み、身動きが取れなくなったという。

※南西側より矢野目館を望む

泥濘地に弱い馬と重い甲冑が災いしたのである。こうなると後は首を取られるだけである。相馬側の記録ではこの時伊達の兵730騎討ち死にし、一方の相馬側の討ち死にはわずか数十騎と伝えられる。

※西側より矢野目館を望む

猛暑のなかにひっそりと佇む矢野目館跡、私は伊達者として後ろ髪を引かれる思いを胸に、首を取られた伊達武者の無念さを噛み締め、この湿地に別れを告げた。
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