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 千年以上も継続する勇壮な戦国絵巻「相馬野馬追」、その出陣式を見るためきょうは3時半に起床した。時刻は8時半、例年のように宇田郷の相馬市中村神社には相馬武者の出陣を一目見ようとこのような大群衆が詰めかけていた。

某は先祖が伊達藩の身であるが相馬武者には一目も二目も置いている。相馬は六万石余りの小藩なれど伊達六十二万石から見て、手ごわい宿敵という印象がある。それはなぜなのか?

航空写真で相馬野間追出陣式の行われた中村神社(中村城跡)をご覧頂きたい。立地は典型的な平城であるがゆえ、周囲のお堀の配置は不可欠である。

出陣式のスケジュールはご覧の通り、出陣式は戦に臨む兵の士気を挙げるのが大きな主旨と感じた次第である。

厳粛な雰囲気のなかに於いて中村神社に構えた相馬本陣。誰しもが精神の高揚を隠しえない時である。

総大将、相馬陽胤(そうまきよたね)公が口上を述べるシーンは大きな見所である。ちなみに相馬陽胤氏は麻生太郎氏の甥に当たる。

相馬市長らの挨拶の後、固めの盃の儀に及んだ。相馬者でない某とて興奮を抑えきれないシチュエーションである。

※相馬氏
下総国北西部(現在の千葉県北西部)や陸奥国南東部(現在の浜通り夜ノ森以北)を領した大名。桓武平氏良文流千葉氏の支流。通字は「胤」(たね)。初代の相馬師常は、鎌倉時代初期の武将千葉常胤の次男である。師常が父常胤より相馬郡相馬御厨(現在の千葉県北西部で、松戸から我孫子にかけての一帯)を相続されたことに始まる。

戦国時代は盛胤(1529~1601)、義胤(1548~1635)と武勇に秀でた当主が続き、独立心が旺盛で、現在の米沢や宮城県を領する伊達氏や、現在の茨城県北部を領する佐竹氏に対しても一歩も退かず、伊達氏とは実に三十回以上に亘って抗争を続けその後伊達政宗が現われ南奥州の諸大名の多くが政宗の軍門に悉く降った時も独立を維持し、伊達氏と敵対関係にありながら滅ばされることなく天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に際し豊臣方につき、遂に本領を安堵され。 

※乾杯の儀の後に及び家臣を労る相馬陽胤公。

白馬に乗った総大将、相馬陽胤公の出陣で野馬追初日の中村神社はクライマックスに達する。

いでたちから参謀級の武将と承る。家紋や甲冑から格が伺えるのもこの時代の定めである。

「一」という旗は主従関係の従を示す意味合いと聞き及んだ。主君への忠誠は武士としての大義であり、己の名誉を貫く手段である。(新渡戸稲造「武士道」より)

行列の後方にはこのような神主による神輿も続いた。

明日は南相馬での甲冑騎馬競争、神旗争奪戦が行われる。相馬の夏はこうして今年も燃え上がる。相馬地域の震災復興は千年以上の伝統を持つ野馬追とともにあるのである。
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