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武士の中の武士、伊東七十郎の壮絶な生き方
昔から、男子たる者の目指すべきところに文武両道という言葉がある。文武両道は主君に命を捧げる武士道にはなくてはならないものであり、日々精進し目指すところである。侍は単に勇敢で武術に優れるだけでは片手落ちである。その精神には儒教の教えである仁義が備わっていなければならない。今日紹介する人物は伊達騒動にも登場する人物で、浪人ながらも熱き志を持った一人の侍である。

その名は伊東七十郎、彼の名は本ブログで寛文事件(伊達騒動)の入門編でも触れたし、仙台市の米ケ袋地区の縛り地蔵の記事でも触れた。きょうはこの侍が如何に剛毅であり、かつ文武に秀でた烈士であったのかを彼の残した言葉をもとに語りたい。

※1668年6月伊東七十郎絶筆の書(350年近く前の字にはとても思えない。現代でも十分に通用するような極めて達筆な書である。)

彼は処刑される四日前に『人心惟危 道心惟微 惟精惟一 允執厥中』云々という言葉を直筆の書に残している。この言葉の出典は中国の書経であり、彼の教養の深さが十分に伝わるものである。

その意味は『人の心は肉体があるから、物欲に迷って邪道に陥る危険があり、本来人に備わってる道義の心は物欲に覆われ微かになっている。それゆえ人心と道心の違いをわきまえ、煩悩にとらわれることなく道義の心を貫き、天から授かった中庸の道を守っていかねばならない。』というものである。
※以上諸橋轍次編集「中国古典名言事典」より。

まさに質実剛健な彼の一本気を彷彿させる言葉である。烈士伊東七十郎に纏わる逸話は寛文事件に関する著物に現れているが、一説によると彼は一度に三升もの大飯を食らい、4、5日の絶食に耐え、一日に100キロも走ることが出来るずば抜けた体力を持った豪傑だったという。
       
      伊東七十郎(1633~1668)

伊東七十郎(1633~1668)祖父である伊東重信は、戦国時代に伊達政宗に仕え、天正16年の郡山合戦において政宗の身代わりとなって戦死している武功ある家柄であった。しかし彼自身は家柄的にはどの階級にも属さず平士(殿様とは直接口を利くことが許されない身分)であった。

※寛文年間に於ける仙台藩の家臣団の領地図をご覧頂きたい。オレンジの北村という地名には石高が記入されていない。それと伊東七十郎の名前のところに一門、一家などの家格が書いていない。彼が平士であったことが良くわかる図である。

七十郎は、儒学を仙台藩の内藤閑斎、京都で陽明学を熊沢蕃山、江戸で兵学を小櫃与五右衛門と山鹿素行にそれぞれ学んだ。一方で深草にて日蓮宗の僧・日政(元政上人)に国学を学び、文学にも通じていた。また、体力に優れ、武芸にも通じ、生活態度は身辺を飾らず、内に烈々たる気節を尊ぶ直情実践の士とされている。

伊達氏仙台藩の寛文事件(伊達騒動)において、伊東七十郎は伊達家の安泰のために対立する一関藩主である伊達兵部を討つことを甥の伊東采女重門と謀ったが、事前に計画が漏れて捕縛された。

※伊東家に仕える鷺坂という家臣の裏切りで兵部一味に捕らえられた烈士・伊東七十郎。「謀ったな!鷺坂!」という捨て台詞を吐き睨みつける

この縛り地蔵は伊東七十郎を供養するために作られたそうであるが、縄で縛られた姿はまさに上のドラマでのシーンと一致するものである。

七十郎は入牢の日より絶食し、処刑の日が近づいたのを知るや
「人心惟危、道心惟微、惟精惟一、誠厥執中。古語云、身をば危すべし、志をば奪べからず。又云、殺べくして、恥しめべからず。又云、内に省てやましからず、是予が志也。食ヲ断テ、卅三日目ニ書之也 罪人重孝」
と書をしたため、その4日後の寛文8年(1668年)4月28日、誓願寺河原にて処刑された。また一族は断絶となった。

NHK大河ドラマ「樅ノ木は残った」より。盲目となった里見十左衛門(左)は土砂降りの雨の中、原田甲斐(中央)に対し、「ここだ!七十郎はここで首を切られ、屍を犬猫に食われ、土に返っていったんだ!」と訴え、号泣に及んだ。ドラマゆえ、真偽のほどはともかく、思わずもらい泣きするシーンである。自分の中では’影のクライマックス’と言っていい。

この縛り地蔵は年に一度縁日に縄を解かれる。彼の供養を兼ねて是非一度訪ねてみたいと思う次第である。掲示板によると

毎年7月23日:供養、お参り、祭

毎年7月24日:お参り
となっている。
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