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相馬から伊達に寝返り、小斎を任された一人の武将
一昨日、バイク仲間と丸森町(宮城県南部)を訪れた私は小斎という部落を訪ね、ある古城に足を運んだ。ご覧の通り、バイクを止めた地点は果樹園と野原が広がっている。

昔この地に佐藤為信という武将が住んでいた。佐藤氏は源頼朝に仕えた武将の末裔と言われる。その後相馬氏に使え、伊達政宗に寝返ったとされる。屋敷は明治時代まで存在したらしいがその写真をインターネットで探すことは出来なかった。

私は往年の侍屋敷に思いを馳せ、ロマンに浸った。千石取りの武士であった佐藤為信は兜に弾丸を受け戦死したとされるが名誉の戦死を遂げた誉れ高い武将ではなかったのだろうか?

これはインターネットから拝借した柴小屋館(別名、小斎城)の絵図である。④が本丸(右側のⅡ部分)と二の丸(Ⅳ部分)を分離している堀切り(一気に敵に攻められないようにするための防御のための堀)とのことである。

赤:柴小屋館跡(別名、小斎城)、黄色:佐藤家(武家屋敷)跡

柴小屋館を紹介する前に城の西側に位置する物見櫓をご覧頂きたい。(インターネットから拝借)正面方向が蔵王(山形県)山系、目の前に開けるのは角田から丸森にかけての盆地である。

ここで戦国時代に於ける柴小屋館周辺の拠点(砦)をご覧頂きたい。
赤:柴小屋館(伊達→相馬→伊達)
黄:金山城(伊達→相馬→伊達):一年ほど前本ブログで紹介済み。
如何にこの地域で伊達と相馬が小競り合いに及んだかおわかり頂けると思う。

柴小屋館に至るにはこのような鬱蒼とした竹林の脇の坂道を百メートルほど登らねばならない。道路は整備されていたゆえ歩きづらいということはなかった。

息を切らしながら坂を登ると鳥居が現れた。どうやら神社のようである。

本丸のあった東隣は八重垣神社の社が建っていた。

ここが本丸跡である。今は石碑が遺されるのみである。

※柴小屋館(別名小斎城)以下インターネットから引用
築城年代は定かではない。永禄9年(1566年)以前は小斎平太兵衛の居城であったが相馬氏に攻められ落城。天正年間(1573年~1592)になると相馬氏と伊達氏によって争われ、天正10(1582)から天正12(1584)頃に柴小屋館は伊達氏の所領となった。その後は相馬の家臣で伊達氏に寝返った佐藤為信が城主となった。

佐藤為信は佐藤好信の嫡男で、源頼朝に仕えた佐藤忠信継信兄弟の子孫とされる。伊達氏に仕えた佐藤氏は江戸時代になってからも柴小屋館の南麓に居館を構え、明治まで代々続いた。東西に長く伸びた尾根の頂部に築かれている。東西に長く伸びた尾根上を南北の空堀で区画して東西に曲輪を連ねる縄張りで、主郭と思われる曲輪には現在八重垣神社が鎮座しており、柴小屋館の石碑が建っている。

参道は主郭東の空堀付近から南東側へ登るように付いているが、本来の虎口は南西側にある。空堀を挟んだ西側の曲輪が二郭で、西端に土塁が付く。空堀を挟んだ西側は小郭で、周囲に土塁が巡り、西側から南北両側へ竪堀と堀切へ回り込む通路が付いている。この小郭はおそらく二郭と木橋でつながり馬出の役割を果たしていたものと思われる。

更に西に小郭が付いているが、その先は自然地形になっている。主郭から東西に連なる尾根上の曲輪に対して南側の山腹に腰曲輪があり、主郭部は特に西側に土塁がついて虎口のようになっている。

ここがさきほど説明した堀切跡だが天然のものなのか、それとも人工的に掘ったものなのかはわかっていないようである。

今度は二の丸のほうから本丸方向を望んでみた。

インターネットから拝借した鳥瞰図をご覧頂きたい。神社、本丸跡、堀切跡、二の丸跡が手に取るようにおわかり頂けるとことと思う。

最後に二の丸方向(蔵王山系方面)をご覧頂きたい。隣の金山城ほどではないにしろ天然の要害という雰囲気がおわかり頂けると思う。

次回は丸森の豪商「斎理屋敷」を紹介する予定である。
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