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 寛文事件の生き証人逆さ門と原田甲斐屋敷
前々回の記事で寛文事件に関係した仙台藩士の屋敷跡を紹介したが片倉小十郎屋敷と原田甲斐屋敷がはっきりしなかったため、本日探索してみた。先ずは片倉小十郎(景長)屋敷である。

以下、Wikipediaより引用

片倉 小十郎景長(かたくらかげなが)(1630~1681)
仙台藩伊達氏の国家老及び白石城城主。松前安広の子で母は片倉重長の娘喜佐。外祖父重長に男子が無かったため養子となった。通称は片倉氏の当主が代々名乗る小十郎で景長は三代目に当たる。

伊達騒動の際には国元にあり、幼主亀千代(伊達綱村)を補佐していたが、大老酒井忠清邸で家老原田甲斐が刃傷に及ぶとの報が入ると、景長は直ちに領内に非常体制を敷いて領内での混乱を食い止めた。この働きが評価されて仙台藩は改易を免れることとなった。だが、病弱であったため、事後処理を終えると間もなく国家老を辞している。

ここがつい最近まで発掘調査が行われていた片倉 小十郎景長仙台屋敷跡である。今は調査の時に設置した仮囲いも撤去され更地となっている。

ここで着目したいのはこの屋敷が建てられたのは寛文事件(1671年)の起きた6年後の1677年ということである。三代目小十郎は1681年に没しているのでこの屋敷には四年しか住んでいなかった(晩年を過ごした?)ことになる。

従って寛文事件が起きたころ、前回私が場所が違うのでは?とした広瀬川北部の敷地(現:青葉区西公園)に小十郎が住んでいた可能性がある(新人物往来社「歴史研究」1990年8月号の地図に記載)のだが定かでない。この件はわかり次第フォローする予定である。

伊達家と血の繋がっていない片倉家は家臣の中では別格中の別格の扱いを受けていたとされる。それは知行一万八千石を与えられただけでなく、このような要所中の要所に屋敷を構えることを許されたことからも伺えるのである。

この図に注目して頂きたい。なんと片倉屋敷の前を通らねば本丸にも二ノ丸にも行けないことになるのである。これだけでも如何に同家が伊達家から絶大な信頼を得ていたのかが良くわかる。

赤:仙台上本丸、黄:仙台城二ノ丸、青:片倉小十郎仙台屋敷

ここで航空写真で位置を確認して頂きたい。
赤□:JR仙台駅
黄緑○:寛文事件時に於ける片倉小十郎屋敷と思われる場所
黄緑□:寛文事件の6年後から幕末までの片倉屋敷跡
赤○:原田甲斐屋敷跡

次に向かったのは原田甲斐屋敷である。(現、仙台高等裁判所敷地内)今回はインターネットで下調べしていったので間違いない。三度目の正直である。

原田甲斐の敷地は事件後改易になり仙台藩に没収された後、石母田という家臣に与えられたが、石母田氏は逆臣の屋敷の跡地で縁起が悪いと思ったのか敷地の表土3尺(90センチ)を鋤とったと言われる。

甲斐は宮城県南部の船岡というところに4380石の知行を与えられた重臣(家老)であった。

鬱蒼と木々が生える屋敷跡の中でほとんど枯れ果てた一本の老木が私の目に止まった。明らかに老木とわかるものである。

樹種は「コウヤマネキ」昭和50年で樹齢約300年ということは現在で約340年ということになり1670年代に植樹されたことが伺える。恐らく原田甲斐屋敷が没収された後に石母田氏が庭木として植えた樹木でないだろうか?となると太平洋戦争の戦火にも耐えたことにもなり、私は感慨深くこの木を眺めるに至った。

甲斐の屋敷からは広瀬川越しに仙台城本丸も見え、藩祖政宗公の眠る経ヶ峰(瑞鳳殿)もこのように見えていたのである。片倉屋敷ほどでないにしても原田家も重臣屋敷と呼ばれる一角に居を構えていたことになる。

この後、以前原田甲斐屋敷にあった山門の移転先である青葉区新坂通りの荘厳寺を訪ねた。

仙台藩逆臣として門を逆さに立てられさらし者にされた甲斐の無念さを思うと断腸の思いを感ぜずにはいられないものがある。一部で甲斐の霊を弔う人々も存在した現実を思うと、この辺は幕府への対面をつくろうものと解釈出来ないこともない。

この門は毎日ここをくぐった主の生き様を見ていたはずである。或いはこの門はこの事件の真相を知っているのであるまいか?そう考えると、私は逆さ門といわれるこの門に壮大なロマンを感ぜずに居られないのである。

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