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仙台が生んだ才女、相馬国光(こっこう)の素顔
最近図書館からこのような本を借りてきた。相馬愛蔵・国光著作集「広瀬川の絆」である。

相馬黒光(1876~1955

女性実業家 、1876年旧仙台藩士星喜四郎、巳之治の三女として仙台に生まれる。少女期より教会へ通い、キリスト教信仰を持ち、12歳で洗礼を受けた。母みのじは漢学者星雄記の三女である。

1891年、宮城女学校(現・宮城学院中学校・高等学校)に入学したがストライキ事件により退学し、横浜のフェリス英和女学校(現・フェリス女学院中学校・高等学校)に入った。しかしフェリスも退学し、1895年に憧れの明治女学校に転校、1897年に同校を卒業。

明治女学校在学中に島崎藤村の授業を受け、また従妹の佐々城信子を通じて国木田独歩とも交わり、文学への視野を広げた。「黒光」の号は、恩師から与えられたペンネームで「溢れる才気を少し黒で隠しなさい」という意味でつけられたものと言われている。

本の冒頭の写真には彼女の生家が紹介されていた。仙台城下に近い西公園である。ここは藩政時代は侍屋敷が建ち並んでいたところで、一昨日の記事(寛文事件関連)でも取り上げた地区である。説明書きを見ると国光の家は手前の黒っぽい建物の奥の方となっている。事前にこのような基礎知識もあったので、私は寛文事件関連の探索をした際、通りすがりに国光の生家らしき跡を訪ねた。

ちなみに正面に見える高層ビルは市民会館でかつては忠臣伊達安芸の仙台屋敷があったところである。
目指す建物は屋根の形が変わっているのでひと目でわかった。今はYMCAの室内プールとなっているらしい。

航空写真で位置を確認して頂きたい。赤:相馬国光生家、黄色:伊達安芸仙台屋敷跡地。「広瀬川の絆」には伊達安芸の屋敷を通り過ぎる国光や原田甲斐に関する逸話が出てきており、大変興味深いものである。

生家は恐らくあの電柱のあたりだったのでないだろうか?この辺りは位の高い侍の屋敷で国光の祖父も学者のような存在の仙台藩士であった。しかし明治維新以降は急に家が落ちぶれていくことになる。

1898年卒業後まもなく長野県でキリスト信者の養蚕事業家として活躍していた相馬愛蔵と結婚し、安曇野に住んだが1901年東京小さなパン屋を開業、1904年にはクリームパンを発明した。

夫とともに、中華饅頭、月餅、インド式カリー等新製品の考案、喫茶部の新設など本業に勤しむ一方で、絵画、文学等のサロンをつくり、荻原碌山、中村彝、高村光太郎、戸張弧雁、木下尚江、松井須磨子、会津八一らに交流の場を提供し、「中村屋サロン」と呼ばれた。

黒光は、愛蔵の安曇野の友人である荻原碌山の支援者となり、碌山の作品『女』像は黒光をモデルとしたものだと言われている。

切手にもなった荻原碌山作「女」

亡命したインド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースらをかくまい、保護し、1918年には、長女俊子がボースと結婚した。そのほか、ロシアの亡命詩人ワシーリー・エロシェンコを自宅に住まわせ面倒をみ、ロシア語を学んだりした。夫が死去した翌年の1955年、80歳で死去。 

文才と美貌、そしてアイディアと男性顔負けのバイタリティに溢れた国光の80年の生涯であった。
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