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伊達騒動に関連する仙台藩重臣屋敷跡を訪ねて
※昨日投稿した記事に伊達騒動関連の重臣に新たに①奥山大学②茂庭周防定元③里見十左衛門の三人を加えたので興味のあるかたはご覧頂きたい。

昨日は半日かけて伊達騒動に関係した仙台藩士の屋敷跡を七箇所回ってみた。まずこの概略図をご覧頂きたい。(データ提供:ロッソさん)

主な人物の敵対関係を赤線で、同盟関係を青線で、どちらとも判定のつかない関係を黄色線で表してみた。上段右から二人目の奥山大学などは伊達兵部にも茂庭周防定元とも敵対しており、伊達兵部と伊達安芸との絡みを更に複雑なものにしている。

ここで寛文事件の概略を年ごと(西暦)の出来事で説明する。

1660

仙台藩三代藩主伊達陸奥守綱宗(忠宗六男)は不行跡を幕府に咎められて隠居させられると幕府の同意を得て嫡男の伊達亀千代(後の伊達綱村)を藩主に据えることとなり、伊達兵部(一関藩主、政宗十男)、田村右京(岩沼藩主、忠宗三男)の両名が亀千代の後見人となる。

1665
登米伊達式部(忠宗五男)と涌谷伊達安芸の間で領地争いがおこる(谷地紛争)

1666
亀千代置毒事件(一回目)毒見役が即死。伊達兵部宗勝の命により医師河野道円が殺される。膳番、女中も殺される。

1668
亀千代置毒事件(二回目)原田甲斐の世話で亀千代の小姓になっていた塩沢丹三郎が鱸(すずき)に毒を盛り自ら食し死亡。

1669
亀千代元服し、伊達総次郎綱基と名乗る。登米、涌谷の領土問題、一応の決着を見るも伊達兵部宗勝が領土問題に介入し、伊達安芸に不利な判定を下し伊達安芸は憤慨する。

1670
伊達安芸は非を糾すように藩に要求するも、伊達兵部はこの要求を拒否する。これを不満とし、伊達安芸は幕府に訴えを起そうとする。江戸屋敷の茂庭周防良元、片倉小十郎景長が伊達安芸に今は訴えを起すべきではないと諭すが安芸は聞き入れず12月に幕府に訴える。

1671
二月二日伊達安芸は幕府呼び出しを受け伊達兵部を訴える為に250名の家臣とともに江戸に出立する。同年三月二十七日伊達安芸、大老酒井雅楽頭忠清邸にて、伊達家の問題について裁定を仰ぐ。柴田外記聴取の後、原田甲斐乱心に及ぶ。伊達安芸、柴田外記慙死に及ぶ。蜂谷六左衛門可広、古内志摩は怪我を負う。原田甲斐は外記と相討ちとなりその場で絶命する。伊達兵部と嫡男の伊達東市正宗興は流罪、東市正宗興の子息は吉田藩預かり、田村右京は閉門、原田家は断絶(孫娘のみ助命)される。

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今度は事件が起きたあたりの仙台藩重臣の主な知行地と石高を示す。(資料:教育社新書「原本現代訳伊達騒動」作者不詳、須知徳平訳より)特に首謀となった重臣を色付けしてみた。亀千代の後見人である伊達兵部と田村右京には三万石、伊達安芸が二万二千石でこれに続いている。これに対して宿老の身である原田甲斐は四千四百石弱の石高となっている。このあたりは各重臣の微妙な力関係を反映していると捉えてもいいだろう。

※教育社新書「原本現代訳伊達騒動」より引用
これは江戸時代に描かれたと見られる仙台藩の地図の写本である。(提供:東北大学史料館)これに基づき、部分的ではあるが近年の道路地図に合わせたものも作られている。

これがその地図である。昭和三十年代の作成と思われるが現在の位置との整合はさほど難しくない。(資料:新人物往来社「歴史研究」1990年8月号より)

黄色:JR仙台駅、赤:主な重臣の屋敷

政宗の時代彼の片腕とも言われた片倉小十郎の屋敷は広瀬川の東側となっているがこれは西側の誤り(近年片倉屋敷の発掘調査が行われている旨より)と見られる。
しかし騙されたつもりでこの地図の通り行ってみることにした。

先ずは伊達兵部仙台屋敷跡である。今はこのようなどこかの社宅となっている。三万石の大名だけに敷地はかなり広大(数千坪)と察した。

次は忠臣とされる伊達安芸の仙台屋敷である。兵部と同じ広瀬川沿いであるが、今は市民会館の高層ビルとなっていて往時の面影はまったくない。

「歴史研究」1990年8月号通りの片倉小十郎仙台屋敷は恐らくここでない(実際は広瀬川の西側)と見られるがこの日は確認できなかった。伊達安芸と親密な関係であった片倉小十郎は忠臣と見られる。
余談であるがここは西公園都言われる桜の名所で先日夜桜見物に来た場所である。

今度は航空写真で確認して頂きたい。
橙:伊達兵部屋敷(亀千代後見人)
青:伊達安芸屋敷
黒:片倉小十郎屋敷(「歴史研究」1990年8月号より)
黄:茂庭周防屋敷
赤:原田甲斐屋敷
桃:田村右京屋敷(亀千代後見人)
緑:伊達式部屋敷
紫:柴田外記屋敷

次は茂庭周防定元の仙台屋敷である。右側の神社がその敷地である。

ここにはこのような立札が立っていた。どう考えても彼は忠臣である。

奥山大学と原田甲斐の仙台屋敷は隣あっているが、漢文事件を起こした原田甲斐の屋敷はその後召し上げられ他の家臣(石母田氏)に供された。但し石母田氏は逆臣の地は縁起が悪いと思ったのか90センチも表面の土が取られたとのことである。

各重臣の名が入った地図は近年、冒頭で紹介した古地図を元に作られたものである。(資料提供:東北大学)

レトロなバスが走っているがこのあたりが田村右京仙台屋敷跡である。

田村右京屋敷と伊達式部屋敷の位置関係をご覧頂きたい。何れも現東北大学敷地内となっているが、やはり重臣ということで面積は数千坪ほどの広い土地を有したと見られる。(資料提供:東北大学)

伊達式部仙台屋敷跡はこのあたりと見られる。但し道路が藩政時代より大幅に拡幅されているので若干のずれが生じているようである。

最後に訪れたのが東北学院大学構内の柴田外記仙台屋敷跡である。今は校舎が建っていて往時の面影はまったくない。

かろうじてこのような立札が立っているのみであった。

非常に登場人物の多い寛文事件であるが、なるべくわかりやすいようにお伝えしてゆく所存である。
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