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 山本周五郎「樅ノ木は残った」概要
「伊達騒動(寛文事件)の研究」について筆者挨拶
伊達騒動(寛文事件)は江戸時代に於ける三大お家騒動の一つとも言われ、仙台藩の内情と幕府の思惑(外様大名取り潰し)の重なった非常に複雑な事件として存在し、これまで様々な人々が解明に挑んだが全容が解明されていないものである。

伊達騒動は伽藍千代萩などの大衆演劇の題材として江戸時代から人々に親しまれてきており、人々の間には劇から伝わった印象が深く関わり、伊達兵部と原田甲斐は逆臣、伊達安芸は忠臣という印象が強くなっている。しかし一部の歴史学者はこれを否定(原田甲斐は忠臣)したり、また不明(伊達安芸は偽善)ともしている。また近年は山本周五郎氏が小説「樅ノ木は残った」に著すなど、事件に関わる異説も数多く出てきている。

私自身も初心者の域を出ないものであるが、少しでも多くのかたに問題を提起したいという意向によりブログ書庫に「寛文事件の研究」として取り上げることとした。歴史好きなかたもそうでないかたにもわかりやすく親しめるような内容になるように努力を惜しまないつもりである。

昨日私は図書館で三時間に及ぶ「樅ノ木は残った」のビデオ鑑賞を行い大筋を把握し、本日は半日がかりで仙台市街西部を回り、かつ事件に関わった仙台藩士の屋敷跡を訪ね、また東北大学からは貴重な往時の侍屋敷位置を示した現代版地図の写真撮影の許可を頂きカメラに収めてきた。今回は誌面の関係上、これら全部は掲載できないが、近いうちに続編としてお伝えする予定である。

尚、皆様に親しんで頂けるように事件に関わった人物の肖像(実存するものは極力絵図で、肖像画が残こされていない人物についてはNHK大河ドラマ「樅ノ木は残った」より役者さんの画像を拝借)を掲載することにした。私も『知るは楽しみなり』をモットーに掲げ、皆様とともに気楽な同好会のような形で忌憚なく意見を交換し、楽しく「寛文事件」に親しんで行きたい所存である。きょうは初回ゆえに人物紹介のみに留める。

今回の参考としては①新人物往来社出版「歴史研究」1990年8月版②教育社新書「原本現代訳伊達騒動上下版」須知徳平訳③インターネットよりの情報(ミックがわかりやすく端折って編集)を採用した。

尚、読者諸兄の中で見解が違うなどと感じたかたは遠慮なく申し出て頂きたい。一緒に学んで、或いは教えて頂きたい所存である。

    伊達綱宗(だてつなむね)(1640~1711)

仙台藩第代藩主、伊達氏第19代当主。第代藩主伊達忠宗の六男。母は側室貝姫。若年で家督を継ぎ、酒色に溺れて藩政を顧みない暗愚な藩主とされているがこれは一説に幕府の陰謀ともされる。叔父に当たる一関藩主伊達兵部の政治干渉、家臣団の対立などの様々な要因が重な、藩主として不適格と見なされ幕命により万治年(1660年)18日、不作法の儀により21歳の若さで隠居させられ

この後家督は綱宗の歳の長男亀千代(後の伊達綱村)が継ぐ。綱宗は後西天皇の従兄弟であることから幕府から警戒されており、保身のために暗愚なふりをしていたとの説もある。隠居後の綱宗は風流人として生き、諸芸に通じ穏やかな生涯を送る。画は狩野探幽に学び、和歌、書、蒔絵、刀剣などに優れた作品を残しており、「花鳥図屏風」(六曲一双紙本金・銀地著色)をはじめとした作品が仙台市博物館に所蔵されている。

   原田甲斐(はらだかい)1619~1671

江戸時代前期の仙台藩士(奉行職。伊達騒動の首謀者とされる伊達兵部と対立していた伊達安芸兵部らを幕府に上訴すると、寛文1127日、原田甲斐は幕府の評定を受けるため、他人の仙台藩家臣と騒動解決を目的として時の老中酒井雅楽頭忠清邸に召喚されたが、評定が始まると同じく召喚されて来ていた伊達安芸をその場で斬殺し、さらに安芸派の柴田外記と斬りあって傷を負い死亡した。享年数え年53歳。事件後に原田家は仙台藩逆臣とされ男子は切腹又は斬罪、女子は他家預かりとされ、家は断絶された。

  伊達兵部(だてびょうぶ)(1621~1679)

江戸時代前期の大名。仙台藩初代藩主伊達政宗の十男として生まれる。仙台藩支藩である一関藩の藩主となる原田甲斐とともに伊達騒動の首謀者とされる二大藩主伊達忠宗(伊達政宗次男)が死去した万治元年(1658年)、忠宗の六男である綱宗が跡を継いだが、その2年後幕命によって隠居を余儀なくされ、その跡をわずか歳の長男亀千代(後に伊達綱村仙台藩主を継ぐこととなった。

兵部は綱宗の庶兄、田村右京とともにその後見人となっ藩政を仕切ったそして嫡男宗興の正室に幕府老中、酒井雅楽頭忠清(さかいうたのかみただきよ)の養女を迎えるなど幕府との繋がりを図り、同年(万治には万石の分知を受けて大名とな兵部は幼少の藩主亀千代の後見役でありながらみだりに刑罰を科して仙台藩政の混乱をもたらし、果ては江戸での刃傷沙汰という不祥事を招く原因を成したとして、一関藩は改易となった。兵部は土佐藩主山内豊昌預かり、他の家族も他家預かりとなり家は断絶となる。

   伊達安芸(だてあき)(1615~1671)

江戸時代初期の仙台藩一門第四席、涌谷伊達氏(二万二千石)二代当主。伊達騒動の主要人物の一人。知行地紛争(谷地紛争)の件などで兵部らから度重なる冷遇を受けていた安芸は、兵部一派の一掃のため、仙台藩の現状を幕府に訴える決意を固める。安芸の考えを知った茂庭周防や片倉小十郎景長らは、藩の内紛が幕府に知れれば仙台藩は改易の危機に瀕するとして上訴を諌止したが、安芸はこれを聞き入れず寛文10年(1670年)12月、申し条を記した上訴文が幕府に提出される。

この告発を受けて幕府は江戸での詮議を決定し、幕命により安芸は翌寛文11年(1671年)2月2日に25名の家臣を引き連れて涌谷を出発、2月13日江戸に到着、3月27日老中酒井雅楽頭忠清邸での評定中に原田甲斐に斬殺されたとされるが幕府陰謀説もあり真相は定かでない。

    奥山大学(おくやまだいがく)(1616~1689)

仙台藩重臣。奥山常良(仙台藩重臣)の二男として生まれる。慶安年(1649年)に父が死去すると、承応年(1654年)に奉行職(家老)に就任。万治年(1660年)の一門重臣14名の連署による伊達綱宗の隠居願に署名している。わずか歳の亀千代(のちの綱村)が第4代藩主になると、大学は柳河藩主立花忠茂(綱宗の義兄)の後押しを受けて仙台藩政を主導して、同じく奉行職にあった茂庭周防定元と激しく対立した。またこの当時、亀千代の後見役として伊達兵部(亀千代の大叔父)と田村右京(亀千代の伯父)が大名に取り立てられていたが、大学兵部の一関藩も右京の岩沼藩も共に元々仙台藩知行地なのであくまでも仙台本藩の統制に服すべきであるという姿勢を崩さなかった。

しかし、自身の所領である柴田郡村田を岩沼藩領として提供するための代替地として肥沃な吉岡を蔵入地から私領に組み込んだことで、藩内に渦巻いていた大学への不満が爆発し、ついに大学弾劾の火蓋が切られ、一門の伊達安芸や後見役の兵部、右京もこの運動に同調したため、寛文年(1663年)月に大学は辞職に追い込まれた。以後大学が藩政の中枢に関与することは無くなる。

     茂庭周防(すおう)定元 (16211666

実父は松山初代となる茂庭良元、祖父に鬼庭綱元(人取橋の戦いで戦死)。三男であったため、はじめ片倉重綱の養子となるが、二兄が病気などにより嫡男とならなかったため、茂庭家に戻って家督を継承し、後に江戸詰奉行(家老)となる。

1660年、藩主伊達綱宗が幕府の命により隠居させられると、綱宗の嫡男で歳の亀千代丸(綱村)が家督を相続することに難色を示した幕府老中酒井雅楽頭に対し、亀千代丸後継を断固主張し、亀千代の襲封を実現し甲斐、安芸と共に兵部の陰謀を防ぐために奔走する。その後奉行奥山大学により、綱宗不行跡の責任を問われて失脚した。※「樅ノ木は残った」などから引用

   柴田外記(しばたげき)(1609~1671)

江戸時代前期の仙台藩重臣。伊達騒動の主要人物の一人。大坂夏の陣で父が主君長宗我部盛親に従い討死すると。母と共に逃れたが、伊達勢に捕らえられ、母ともに仙台に送られる。ここで資質を見抜いた伊達政宗の家臣に運良く抱えられる。万治3年(1660年)12月には富塚重信と共に仙台藩奉行職に就いた。この時の奉行は茂庭周防、奥山大学常辰、古内志摩、大條宗頼、柴田外記、富塚重信の6人であったが、茂庭と奥山は相次ぐ権力争いに敗れ失脚し、権力は兵部派と安芸派に二分される。

この後外記は安芸派に属することになる。寛文11年3月27日の江戸の酒井雅楽頭忠清邸での審問は1人ずつ行われ、外記は二番目となった。この二度目の審問を終え別室に戻った外記は原田甲斐が伊達安芸を斬ったのを目撃、この後外記は蜂屋可広と共に原田甲斐を斬ったとされる。しかし、この直後に飛び込んできた酒井家の家臣が混乱の中で誰彼かまわず斬りつけたため、蜂屋と外記は致命傷を負い絶命する。

  古内志摩(ふるうちしま)(1631~1673)

仙台藩士岩沼古内家の別家で、古内実綱の次男古内義実の子として生まれる。万治年(1660年)に評定役、寛文年(1666年)には仙台藩奉行に昇進し、禄3283石となる。寛文年(1669年)に弟の古内義連に分知して別家とする。

寛文11年(1671年)月、大老酒井忠清の屋敷で、伊達安芸と伊達式部の所領紛争の裁判を行っている時に刀傷事件(通称寛文事件)では国老証人として召集されていたが、運よく席をはずしていて難をまぬがれた。その後、宇和島藩邸に留め置かれたが、帰参許可が得られ、仙台藩へは10月に帰国した。その後、病を患い、寛文13年(1673年)12日、病にて享年43で没する。墓所は現仙台市泉区の慈眼寺。

里見十左衛門(さとみじゅうざえもん)(1609~1668)

紀州藩主徳川頼宣に仕えていたが、1636(寛永13)年より仙台藩伊達家に仕え、藩主伊達忠宗の小姓頭などを務める。1660(万治3)年の亀千代丸(綱村)の藩主就任後、次第にその後見役伊達兵部の専横が強まると、これを批判した奉行(家老)奥山大学を逆に失脚させた。その後、原田甲斐を通じて兵部に諫言したために兵部の怒りを買ったが、田村右京の加護で難を逃れ、晩年は1668(寛文8)年は兵部により切腹させられたとも言われる。 

     伊東七十郎(1633~1668)

仙台藩士伊東理蔵重村の二男として生まれる。七十郎は仙台と江戸をたった二日間で走り、米を一度に五升も喰らうなど烈士、豪傑としてその名を轟かす。寛文事件においては伊達家の安泰のために対立する一関藩主伊達兵部を討つことを甥である伊東采女重と謀ったが、事前に計画が漏れて捕縛される

七十郎は入牢の日より絶食し、処刑の日が近づいたのを知るや『人心惟危、道心惟微、惟精惟一、誠厥執中。古語云、身をば危すべし、志をば奪べからず。又云、殺べくして、恥しめべからず。又云、内に省てやましからず、是予が志也。食ヲ断テ、卅三日目ニ書之也 罪人重孝(七十郎本名)』と書いて小人組万右衛門に与えた。

※伊東七十郎の達筆な書をご覧頂きたい。勢いといい、内容といい、とても死を前にした者の書には見えない。

これを書いた日後の寛文年(1668年)28日、死罪を申し渡され、誓願寺河原にて処刑された。伊東一族は、御預け切腹流罪追放となり家を断絶されるも江戸では文武に優れ気骨ある武士と評判の人物であった七十郎の処刑がたちまち評判となり、伊達兵部の権力は陰りを見せるきっかけとなる。

酒井雅楽頭忠清(さかいうたのかみただきよ)(1624~1681)

江戸時代前期の幕府老中、大老。上野厩橋藩第4代藩主。雅楽頭系酒井家宗家4代。第4代将軍徳川家綱の治世期に大老となる。三河以来の譜代名門酒井氏雅楽頭家嫡流で、徳川家康、秀忠、家光の3代に仕えた酒井忠世の孫。久世広之、土屋数直、板倉重矩らの老中達と共に将軍家綱を補佐して殉死禁止令や、陸奥仙台藩62万石の伊達家で生じた伊達騒動(寛文事件)や、延宝年間に越後高田藩で生じた越後騒動などのお家騒動の裁定に関わる。
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