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「天平の甍」

最近、私は「あらすじで読む日本の名著」と映画版の同ビデオで1957年発表井上靖「天平の甍」を鑑賞した。



「天平の甍」概要(インターネット、「あらすじで読む日本の名著」を基にミックが編集)

時は今から1300年近く前の天平の頃、課役逃れの農民の出家が社会問題となっていた。この時期厳しい戒律各自が自分で心に誓うものを「戒」、僧侶同士が互いに誓う教団の規則を「律」という。)が備わっておらない故、我が国は唐より適当な伝戒の師(高僧)を招き入れなければならない状況にあった。そんな折に第九遣唐使派遣が決まったのは天平四年(732年)のことだった。この第九遣唐使に留学僧として普照、栄叡、戒融、玄朗が選ばれた。

※主人公:普照(ふしょう)



580名もの者を乗せた船は翌年733年4月下旬筑紫の大津浦を出港した



四雙の船団は途中嵐に遭遇しながら蘇州に到着した。一行は、そこから朝廷のある洛陽へと向かった。時の皇帝は玄宗、一行は貢物を献上し玄宗と謁見した。四人は洛陽の大福先寺に配属され、こうして留学生活が始まった。

そんなある日普照は業行という先輩留学僧にあった。業行はまだ日本にない仏典を写経しており、その数は膨大なものであった。業行は写経した教典を日本に持ち帰りたいと考えていた。栄叡は戒師として、名高い鑑真の弟子を何人か連れ帰りたいと考えその旨を鑑真にお願いしに行くことにした。その席で思いがけなく鑑真自らが日本へ渡航したいと告げられ、これを受けた弟子の僧も鑑真に着いて日本に渡りたいと表明する。

※民に惜しまれながら「戒律を広めるために日本に渡ることとなった。」と告げる鑑真和上(がんじんわじょう)



鑑真の日本へ渡航は困難を極めた。743年から数度に渡って試みられたものの、船の難破や南の島への漂着が渡航を妨げた。そうしているうちについに日本から遣唐使の迎えが来ることになった。10回遣唐使である。四隻の船団のうちで業行を乗せた船は途中激しい波濤を受け、多量の経巻類とともに海に沈んだ。一方で鑑真一行と普照を乗せた船は苦難の末、薩摩の国の阿多郡秋妻屋浦へたどり着き遂に来日を果たすこととなった。

※薩摩の国の阿多郡秋妻屋浦にたどり着いた鑑真らを乗せた船


  
※盲目となりながらも日本の地を踏んだ鑑真



日本に来た鑑真は754年に入京し唐招提寺を創建する。そして763年に示寂するまでの10年間に僧の戒律の制度を整え、仏教の教化に力を注ぐだけでなく美術工芸の分野にも深く影響を及ぼし生涯を閉じた。ここで登場する鑑真とはどんな人物なのだろう。以下はインターネットからの抜粋である。

        ※鑑真(688~763)



688年中国揚州江陽県に生まれる。14歳で出家し、洛陽・長安で修行を積み、713年に故郷の大雲寺に戻り、江南第一の大師と称され。天宝元年(742)、第9次遣唐使船で唐を訪れていた留学僧・栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)から、朝廷の「伝戒の師」としての招請を受け、渡日を決意する。その後の12年間に5回の渡航を試みて失敗、次第に視力を失いながらも天平勝宝5年(753)、6回目にして遂に日本の地を踏

以後、76に亡くなるまでの10年間のうち5年を東大寺で、残りの5年を唐招提寺で過ご天皇を始めとする多くの人々に授戒をする。その渡航の様子は、「東征伝絵巻」に描かれてい



こうして何度も挫折を繰り返し、6度目の遣唐使の派遣船の出迎えでようやく渡海が成就したのであった。



日本の僧に迎えられる鑑真和上(真ん中のオレンジの衣)



鑑真が創建した唐招提寺。



読後感想
太古からの中国大陸との交流は我が国にも宗教や文化の対流をもたらした。我が国の仏教はその先進的な立場にあった中国から伝わったものである。造船技術や遠洋航海の技術もなかったこの時代に遣唐使を派遣し、中国(唐)から伝戒の師を招き入れるということ自体命懸けのことであったはずである。事実遣唐船が戻ってくる確率は半分以下であったという。

当時中国との国交がなかった時代、井上靖は中国に渡り、取材をしてこの小説を書き上げている。主人公の普照は名門の出でありながら、家が没落しこの船に乗り込むことになった。後の者には課税を免れるために仏門に入った者も居た。それだけ世が腐敗していたことになる。このような中で普照は熱心で勤勉な留学僧であった。生き別れ、死別、彼の行く手には次々と仲間との別れが待っていた。そして修行中でありながらもこの苦難を乗り越え、最後は鑑真を日本に招きいれることに成功したのである。普照の誠実でひたむきな生き方に靖は文学者としての自らの生き様を重ね、共感を覚えたのではないだろうか?

またこの物語にはもう一人の主人公が居る。それは言うまでもなく高僧鑑真である。戒律を広めるためには命懸けの渡航も日本への帰化も辞さないその高潔な志が感動を呼ぶ。井上靖は歴史上の人物を自らの頭の中で捉え、これを文字にする歴史小説の達人である。この作品はまるで立体的な歴史書のような気持ちで鑑賞するに及んだ。甍とは瓦屋根の棟瓦のことであり、建物で一番高いところにあるものである。この言葉が天平という時代の宗教、文化に於ける頂点を連想するに難くない極めて崇高な語感を我々にもたらすものとなっている。まさに達人の域に達した靖の本領発揮と言える名作である。

最後に大量の経巻類とともに海の底に沈んだ業行の印象的な台詞を紹介する。『私の写したあの経典は日本の土を踏むと自分で歩きますよ。私を見捨ててどんどん歩いて行きますよ。』

※鑑真の墓

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