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 藩政時代から続く由緒ある商家の重み
きょうは前回に引き続き、仙台市若林区南材木町の豪商の建物の主に内部についてお伝えする。ここは洋館に付けられた出窓からの眺めである。こうして見ると庭師、或いは建築デザイナーのかたは本当に良く考えたのだと思う。
 
洋館から見ると奥行のある敷地に対し低木が並び、豪邸ならでは広い庭の興をいざない、母屋側から見ると石灯篭(残念ながら震災にて倒壊)や臥龍松など日本庭園の趣を醸し出している。これにはまったく見事な手法、手腕という他はない。
 
そしてこの出窓のデザインは昭和初期という築年を考慮しても大正ロマンとは何かという問いについての一到達点とも受け取れるのではないだろうか?

築年時から変わってない洋館の内装は凝っている。アールの付いたオーダーメイドの洋風建具には秀逸なデザインを感じる。

細かいところであるが建具の木枠(額縁)側にもこのようなアール(曲線)が使われており、並々ならぬデザイナーの拘りを感ずる。(洋館側から玄関を望むビュー)

寄せ木調のフロアーは幾何学的なデザインで往時としては相当高価なものだったのではないだろうか。また腰壁にこのようなデザインが施されているところにも着目したい。一つ一つのパーツがこの洋館を質の高いものに仕立てている。
 
音楽で言えば、オーケストラの管楽器、弦楽器、打楽器がそれぞれの役割を果たしていて一つも間引きは許されないのと同じではないだろうか?一つ一つの部材があってのトータルパフォーマンス。デザイナーはけして手を抜いてないのだ。

それではこの建物(針惣)が建っている南材木町とは一体どんな町だったのだろう。参考までにインターネットで調べてみた。
 
南材木町:河原町に続くの南北に長い南材木町である藩政時代は木材の専売権を許された町で、寛永年間(1624~43)、伊達政宗の晩年近く、若林城が造営された際に、その城下町として形成される往時は若林材木町と呼ばれ、南材木町と呼ばれるようになったのは、若林城が廃されてからである
 
延宝3年(1675)までは、材木のほかに煙草の専売権を持ち、その後も、後任の大町の煙草問屋から問屋代を得る権利を有した。町の中央を七郷堀が横切。土蔵造りの建物がいまも点在し、かつての隆盛を今に伝えている

母屋のほうを紹介する。ここは一階の縁側であるがこのように天窓が設けられている。とにかく明るくて快適そのもので天窓の効果は極めて絶大である。

ガラス引き戸の上には欄間が設けられているがこれまた非常に凝ったデザインである。

「アルプス云々」と書かれた手紙。ご先祖は山登りが趣味だったのだろうか?仏間に飾られている土井晩翠直筆の書にはご先祖のかたへの追悼が綴られているようである。これはまさに家宝と言える。

こちらは明治時代に作られた土蔵の内部である。恐らく往時のままではないだろうか? 参考までに針惣について仙台市ホームページ他で調べてみた。
 
針惣(仙台市景観重要建造物)
藩政時代河原町木戸番をつとめた。店蔵(土蔵)は明治時代の建立。明治時代印毛屋を営む、蒟蒻の粉と鳥モチの専売特許権を持っていた。昭和26年(1951)から62年(1987)までは旅館を営み、市川房江、幸田文(幸田露伴二女、随筆家)角川源義(角川春樹父、実業家、国文学者)らが宿泊。母屋は昭和初期の建築。

土間と小上がりを区画する部分、H氏によるとこの畳の上で勘定がなされ、取引所として使われたとのことであった。

この金庫は豪商ならではのもので、もちろん往時からのものと見られる。

母屋から土蔵に向かう一階通路部分のガラス戸、右側が厨房である。ガラス戸のデザインに注目。

幾何学的な模様の入った欄間は大工の腕の見せどころという印象を受けた。

母屋二階から庭を見下ろしてみた。極めて面積の広いガラス戸である。この時代のガラスは外部がやや歪んで見えるが、これも古き良き時代の立派なロマンと言える。

主寝室(あるじが寝た部屋)の建具は全面欅貼りである。

日本間に施された欅の欄間、これは一枚板を加工しており、極めて高価で価値の高いものという印象を受けた。

H様、取材を快諾して頂き本当にありがとうございました。
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