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 Tchaikovsky くるみ割り人形 「花のワルツ」
      
エッセイ「死ぬまで変わらぬもの」
春を思わせる陽気に誘われ、昼過ぎに街のほうに出てみた。私は基本的に雑踏が苦手であるが、一月下旬になり仙台の街もようやく年末年始の雑踏から解放され落ち着いてきた感がある。そんなことも手伝い私は気楽な気分でまったく雪のない仙台市の中心街を気ままに歩いてみた。



伊達政宗公が基盤を作った城下町仙台は賑やか過ぎず辺鄙過ぎず、全てに於いてバランスが取れており、今でも出張で他の地域から帰った時などはほっとするのである。郷里石巻もそうだが自分が育った街は何年経っても飽きないのだ。これは私が死ぬまで変わらないことである。これと同じように、私にとって死ぬまで変わらない趣味が最近出来つつある。

史跡探訪、寺社仏閣巡り、旧道巡り、古美術鑑賞…これらは五十を過ぎてから新たな趣味となった分野だが、これらともに最近新たに私の趣味の一つになりつつあるものはクラシック音楽である。若い頃は洋楽(ロック)がメインだった。これは私の聴覚が長い時を経て、人生観の変化とともに無意識のうちに変わりつつあるということなのかも知れない。否、洋楽に対しての思い入れは今でも持っているので増えつつあるという表現が正しい。
 
きょう紹介するチャイコフスキーの「くるみ割り人形」は一週間前の日曜日に様々なYOU TUBEの曲をあさっているうちに耳に入ったものである。もちろん出会ったすべてのクラシックと私の波長が合うとは限らない。しかし人様からその理由を聞かれた際、その理由を明確に説明できる自信はない。



私は自分の感性に合うからその音楽が好きになるのだ。このような良質な音楽との出会いは現世に於ける様々な人との出会いと酷似しているのかも知れない。人の好き嫌いにも理屈などはない。人と人との相性などはそれぞれの直感に負うところが大きいのだ。だがここであえて両者の違いを考えてみよう。

先ず人と人との相性を述べるときは、現在は相性の合わない人同士でも双方が歳を重ねて数年後に出会っていればうまく行く可能性がある。それは人は年とともに変わりゆくものであるからである。どんな人でも年月を経ればやがて変わってゆくが、概ね年を取れば角が取れて温厚になる。人同士の相性などは特別な理由がない限り大してややこしいものではなく、案外単純なものなのかも知れない。

これに対して音楽のほうは作られてからずっと変わらない。どんな分野の音楽もそうであるが、クラシック音楽などは誕生してから二三百年もの間、変わってないことになる。従って若年の時に関心もなかった曲が熟年になってから好きになったということは自分のみが変わったということになる。この感覚は使い込んで味が出るもの、例えば皮靴、革手袋、万年筆のたぐいに近いものなのかも知れない。これらの品物は使えば使うほど愛着が湧き手放せないものになってくる。これと同じように相性の合うクラシックは聞けば聞くほど自分の耳に馴染んでいく。そしてやがては自分のSOUL(魂)に響くものとなっていくのである。

私にとってこのくるみ割り人形もそのようなクラシックの一つである。一分の前奏を経て、軽快なリズムと気品溢れるメロディーが流れ出す。それとともに煩悩にまみれた日頃の雑念が徐々に洗い流され、薄らいでゆく。私の場合、アルコールと組み合わせると相乗効果をもたらしやがて陶酔に至る。これを他のものに例えるならば良質な純文学に出会ったような感覚である。これはもちろん歌劇の舞踏にもぴったしのシチュエーションである。いつかは時の流れを一切忘れてこのような歌劇を心ゆくまで鑑賞したいものである。

このように年を取るに連れて趣向が変わったのはクラシック音楽に限ってではない。ジャズやロックに於いても同じことが言える。私の最近新たに加わった趣味を考える時、史跡巡りにしても、古美術鑑賞にしても流行に左右されない普遍的なものであり、ずっと飽きが来ないものと言える。私はおそらくこれから歳を取るに連れ、益々この傾向が強くなっていくものと感じている。
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