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本日は昨日に引き続き、生家横町周辺の製図を行った。先ずは基本情報をGoogle航空写真地図に落としてみた。町名や最寄の寺の記入が済んでいなかった為である。紫桃正隆氏の描いた図面と異なるのは水路や道路の角度が必ずしも直角になっていないということである。こうなると一筋縄では行かない。

もっとわかりやすくする為にGoogle3D立体画像に通のや濠、主要な屋敷の名称を落とし込んでみた。立体画像で見ると屋敷の広さも想定できるからである。(但し、小路は省略した)往時(幕末)の横町(現:千石町)は住吉番屋のところで左に折れ、現在のように真っ直ぐ通ってなかったこともわかる。こうして見ると当時の蛇田町(現:旭町)は石巻の町外れに位置していたことが良く理解できる気がする。ここでお断りしておくが、石巻屋敷や肝入屋敷の広さは私の想像によるものではっきりとした根拠はない。

次に今まで記入していなかった通(横町と交わる春日町と新田町)を図面に落とす為、春日町と新田町の距離を測定してみた。これはYahoo地図についている機能で非常に使い勝手がいい。左の赤い枠の中の数字を見て頂きたい。春日町と新田町の距離は133メートルであった。こうした基本情報を調べた上で製図に取りかかった。

北から掲載する。これは蛇田町の北の町外れの部分である。基本的には紫桃正隆氏の著書『石巻地方の史談と遺聞 大河の四季』の104ページの「石巻の玄関口、蛇田町盛衰記」の北と南を入れ替えたものである。江戸時代末期にここに住んだ住人の固有名詞が出てくるところが非常に興味深い。私はルーツ調べをしている人の目に止まればと思っている。原戸籍を調べることで往時の人物が特定される可能性があるからである。名字がついていないのは農民だったから公では名乗れなかったものと受け止めている。(往時の慣わしで、一般農民や町人は苗字はあっても公的には名乗れなかった)

これは蛇田町の南端の部分である。肝入を北と南に置いて番屋を設け、街道を行く者を見張ったであろうということが理解できる。この図でいくと石巻屋敷(代官屋敷と思われる)が小さく描かれているが、実際は広かったものと推測している。また肝入屋敷も一般の住民の屋敷よりは広かったものと察している。

実際は航空写真の通りであり、もっと複雑(単純に通りや濠が直角に交わっていない)である。この図はあくまで模式図としてご覧願いたい。

これは私の生家のあったところのセクションである。春日町と新田町の距離はヤフー地図で測定したデータを基にして133メートルで入力した。

横町挨拶
例え模式図であっても往時の町の在りようは良くわかります。寛文6年(1661年)以来の蛇田町は宿駅でもございました。紫桃氏は伝馬駄賃の仕事は重労働ゆえ、近隣の農村から壮健な若者を集めたのだろうと述べています。これに対して横町は商家が多かったものと推察しています。これは石巻の歴史第9巻の横町の住人の構成を見れば明らかなことです。実はその中に私の高祖母R(1828~1900)と見られる人物の名が出てくるのです。また、原戸籍には高祖母の父(自分から見れば5代祖父)の名前も出て参ります。ルーツの生没年と名前がわかり、また往時の生活環境もわかり、様々なことが脳裏に浮かんで参ります。

いずれにしても今回の横町界隈の製図で、往時の我がルーツの生活振りが徐々に目に浮かぶようになってきました。それと石巻の郷土同好会である石巻千石船の会のH会長の調査で、往時の横町の近くには葛西氏(中世大名)の重臣の広大な屋敷があったことがわかりました。元禄2年(1689年)に松尾芭蕉の泊まった場所(旧新田町四兵衛宅:現千石町石巻グランドホテル敷地内)もその屋敷の中にあったようです。この重臣と我がルーツに何らかの関係があったのかも興味の尽きない部分です。このあたりは今後の研究課題と受け止めております。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

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