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  小説「津軽」は不朽の名作
昨今、私はブログ仲間の和奴さん(青森県弘前市在住)から感化を受けた或る作家があった。彼の名前は太宰治。まさに剃刀のような鋭い切れ味を彷彿させる文章は稀代の天才作家に相応しいものがある。三連休中日のきょうは仙台市図書館(メディアテーク)に足を運んで彼のビデオ(過去にNHKTVで放映したもの)の第一作と最終作の二作を鑑賞した。
 
休日のひと時、様々な雑念から開放されて好きな作家の文学に親しみ非日常の世界に身を置く心地よさ。これは映画や演劇に没頭する感覚とまったく一緒である。
しかし彼の小説は暗いとよく言われる。そんな私もある友人から「太宰治なんかを読んでいると自殺しそうになる。」と言われたことがあった。彼の作品は全般に渡ってただ暗いだけなのだろうか?それは違う。
 
ここからは文芸評論家の言葉を借りよう。『例え他の作品が抹殺されようが「津軽」だけは永久に残るだろう。』とは亀井勝一郎氏の言葉である。

昭和23年6月、太宰とともに入水心中を図った山崎富栄は本当に美しい人であった。

遺体捜索が続けられる玉川上水、遺体発見は入水六日後の6月19日のことであった。発見時二人の遺体は固く紐で縛られており、しっかりと抱き合っていたということである。

この番組のナレーター兼解説は作家の長部日出雄氏である。
長部日出雄 1934昭和9)年青森県弘前市生まれ。新聞社勤務を経て、TV番組の構成、ルポルタージュ、映画評論の執筆等に携わる。1973年『津軽世去れ節』『津軽じょんから節』で直木賞、1980年『鬼が来た棟方志功伝』で芸術選奨、1987年『見知らぬ戦場』で新田次郎文学賞を受賞。おもな著書に『密使支倉常長』、太宰治を描いた『辻音楽師の唄』『桜桃とキリスト』、『反時代的教養主義のすすめ』などがある。

天才に相応しく驚異的なスピード(実質二週間)で纏め上げられた小説「津軽」

長部氏によると太宰文学に於ける題名のつけかたと書き出しと結び方は天才的なものがあると言う。この冒頭の会話は妻の美智子夫人と交わされた会話である。正岡子規や尾崎紅葉、斉藤緑雨、国木田独歩、長塚節、芥川龍之介、嘉村磯多ら天才作家と呼ばれる者は全て三十台後半で亡くなっていると書いている。彼もその例にそぐわず、「津軽」執筆した後の四年後、39歳で亡くなっている。まともに考えればこれは非常に暗くて重い。しかしながら見方を変えれば、彼は人間としての客観視に優れる(生への執着という煩悩との決別)とも受け取れるのである。人とはまったく違った感性、私もそうだが、読者のほとんどはこの辺りから強くこの作品に引き込まれていくのではないだろうか?

太宰は絵心もあったが地図を書かせてもなかなかのものである。□で囲んだ部分が小説に登場する地名である。赤の金木町(現五所川原市)が彼の生家、オレンジの小泊が太宰の子守を務めた越野タケの嫁いだ場所、水色の弘前市は彼が中学時代(今で言えば高校)に過ごした弘前市である。

彼の生まれた成果は後に斜陽館と言われた五百坪の豪邸であった。長部氏によると、このような途方もなく大地主の家に育った彼の生育環境は以後の作風に大きく反映するものとなったとのことである。

彼の兄弟は十人生まれて二人が早世、津島家では実質六番目の子供であり四男であった。※左から二人目のにやけている少年が太宰である。

太宰の父は県会議員でほとんど家に居なかった。そして実母も父の身の回りを世話するためつきっきりだったので、彼は母方の叔母きゑに育てられることになる。そして娘が五所川原に嫁いだ際に突然太宰との絆を切り離されてしまう。
 
太宰はこの叔母を三十台半ばまで実母ではないか?と信じていた痕跡があり、長部氏によるとこの大きな衝撃が太宰の作家としての歩みを決定づけた(作家には他人とは異なるハングリー精神がないといけない)とのことであった。

子守役だったタケは太宰に本を読み聞かせたり道徳教育を行った。これがその後の太宰の人格形成に大きな影響を及ぼすことになる。

「思い出」の中で生家と目と鼻のさきにある寺に連れられ地獄極楽の絵を見せられた時、太宰はあまりの恐ろしさに泣き出したということだが、これがその絵と見られる。

弘前中学時代、このころから太宰はカフェに入りびたりとなる。彼はとにかく照れ屋だった。一例を挙げるとカフェの会計を済ましてつり銭をもらう時、消えてしまいたいほど赤面して、しどろもどろになり、間が取れなくなるとしているが、これは青年時代の私にも経験のあることである(笑)

東大時代の太宰はカフェの女給と鎌倉の海で心中し、自分だけが助かってしまう。
アルコールとバピナール(麻薬)にはこのころから染まっていた。

三十五歳くらいの太宰、昭和19年津軽旅行に旅立ったころに近い写真と思われる。

青森からバスで蟹田経由で外ヶ浜へ、そして中学時代の友人N君(中村氏)と本州最北端の龍飛を訪ねた。
※吹雪に見舞われる本州最果ての地、龍飛

太宰と友人N君とここを訪れた時三厩から竜飛岬へ至る道路は本州の極地に相応しく、波打ち際を3時間もかかって歩かなければならず、その道路も潮の満ち干の影響を受けるようなものだったらしい長部日出雄氏は太宰が友人N君と竜飛崎に近い最果ての村に来た時の書き下しを絶妙と評している。
 
即ち「この部落を過ぎて路はない。あとは海に転げ落ちるばかりだ。…ここは本州の袋小路だ。読者も銘肌(めいき)せよ。諸君が北に向かって歩いている時、その路をどこまでもさかのぼれば必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼればすぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのであるいう部分である。
 
長部氏の言う通り、やはり太宰は読者の心を掴むうえでは天才的なものを持っていると言っていいのではないだろうか?
 
※太宰が鶏小屋と評した戦前の龍飛の部落

龍飛の後、太宰はタケを頼って小泊に足を運んだ。この日は小学校の運動会、彼女が嫁いだ金物店はあいにく留守だったため、太宰は運動会の行われている小泊村の運動場を訪ねてタケと三十年ぶりの面会に及んだ。まさにこの小説の一番の山である。運動会の場で面会を果たした太宰とタケは龍神様を訪れ一緒に花見を楽しんだ。
 
小説ではタケとのやりとりはまさに血の繋がった親子とも思えるような表現で語られているが太宰研究家の相馬正一氏によるとこの辺は太宰のフィクション(この時の太宰は弟の友人と昔話に花を咲かせていたはず)だと言う。
 
しかし長部氏はストーリーが行動とは別であっても、このフィクションこそが実際の太宰の考えであり、彼の文学であると語っている。
小説「津軽」の最後のセリフを紹介する。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。まさに天才に相応しい太宰の締めであった。

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