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  115名の命と引き換えに得たインド航路
以下「歴史を変えた大航海の世界地図」、「大航海者の世界ヴァスコ・ダ・ガマ」、Wikipediaより引用の上編集
1488年、喜望峰に到達したバルトロメウ・ディアスの帰国後、ポルトガルには不吉なことが続いた。国王ジョアン2世の病気、落馬による王子の死、王位継承でのもめごと…、そうしている間にライバルである隣国スペインはコロンブスによる大西洋横断航路開拓という快挙を成し遂げた。しかしジョアン2世は死の直前の1494年にトルデシリャス条約締結に成功し巻き返しを図った。
※赤線:ポルトガルがトルデシリャス条約で巻き返した境界線。(線より東がポルトガル領、線より西側がスペイン領)これによってポルトガルのブラジル領の所有がほぼ確定する。
翌年ジョアン2世が亡くなるとわずか26歳のマヌエルが新国王の座に就いた。そして翌々年、ヴァスコ・ダ・ガマを提督に任命し、乗組員約170人とともにインドへ派遣した。旗艦サン・ガブリエル号をはじめとする4隻の船は1497年7月8日リスボン市民の盛大な見送りを受けてリスボンを出航した。但しこの任務は非常に危険な任務として、特赦を受けた死刑囚が10名ほど加わっていた。

ヴァスコ・ダ・ガマ(1460年頃~1524年)
ポルトガルのアレンテージョ地方のシーネスで誕生したと考えられる。父エステヴァン・ダ・ガマは騎士階級の人物で後にシーネス町長に就く。母はイサベル・ソドレは英国起源の名家の出であった若年のころの彼は謎が多いが、港町シーネスで生まれ育った事から航海に対する知識や経験は身に着けたと思われる。また、若年から宮廷に出仕したため、そこで教育を受ける機会を持ったと考えられるがインド行きの船団の司令官になった経緯ははっきりしない。

この船団派遣の大きな目的はプレスタテ・ジョンの王国を見つけ友好関係を築くことインドのカリカット王国にゆき、ポルトガル国王の親書を渡し友好関係を築くことインドへ渡って、当時銀と変わらないほど非常に高価香辛料を入手することであった
          コショウ(日本名:胡椒)

          シナモン(日本名:肉桂)

          クローヴ(日本名:丁子)

          ナツメグ

これらの香辛料が当時如何に高価だったのか、下記のレート表をご覧頂きたい。これらの入手が莫大な利益になるのは一目瞭然である。

4隻の船団はディアスも同行したが彼の乗った船はベルデ岬諸島で別れた。

その後3隻の船団は
航海史上、初めて大きな円を描くようにアフリカ大陸を大きく離れ一時は南米大陸に近づくほど大きな弧を描くように遠回りこれはギニア湾の無風地帯を避けたとも新大陸発見のためとも言われているが真相は不明)して、3ヶ月と5日もかけて喜望峰の北西部190キロのセント・ヘレナ湾(○印)にたどり着いた。

 南アフリカ国歌  
そして一ヵ月後の11月22日に喜望峰を回りモッセル湾へ到着、この時ガマは前任者のバルトロメウ・ディアスも成し遂げられなかった快挙にガマは放心して喜んだ。楽隊の奏でる音楽を聞きながら現地人とともに踊り、祝ったのであった。

翌年の1498年3月には出来てからさほど経ってない周囲を海で囲まれ島状となったモザンビーク(イスラム商人の町)に寄港した。

交易で栄えるこの新興の地ではキリスト教徒であるプレスジョアンの噂を入手する。これを知った乗組員たちは感激のあまりに泣き出した。
   ※エチオピア皇帝プレステジョアン想像図

そして次に寄港したモンパサでは、100人ほどの武装集団に攻撃された。 その後、壊血病に苦しみ、水先案内人に騙されるなどしながらも船団はマリンディを経て、ついに1498年5月20日にインドのカリカットに到達した。

カリカットに到達したガマは、友好関係を築くために現地の王と謁見するが「贈り物が粗末である。そなたの贈り物は貧しいイスラム商人にも劣る。」などとなじられた。

このため、交渉はうまくいかず海賊と間違えられたガマはこれに立腹し、大砲を放ち「近いうちに戻ってくるから覚えていろ。」という捨てセリフを残してカリカットを去った
復路インド洋は風向きがまったく逆でアフリカのマリンディに着くのに3ヶ月を要した。この時多くの乗組員が壊血病で命を落とした。
1499年夏、2隻となった船団がリスボンに着いたとき、乗組員は出航時のわずか約3分の1の55名になっていた。しかし多くの犠牲者と引換えにポルトガルは海路でインドに至る新航路を手中にしたのであった。
※赤線:ヴァスコ・ダ・ガマが第一次航海で開拓したインド航路

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