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 西洋人として初めてアフリカ最南端に達する
ポルトガルのアフリカ西海岸開拓事業は1460年のエンリケ航海王子の死去以来停滞する。その理由は財政難であった。それでも開拓事業は継続したい…。当時国王だったアフォンソ5世はこの二つの条件を満たす極めて合理的な方法を考え出した。それはリスボン在住の富豪家、フェルナン・ゴメスと5年契約を結び、一年に640キロずつ南下する代わりに貿易圏を独占できるというものであった。
 
ゴメスは優秀な航海者を雇い、これを順調に成し遂げ、奴隷貿易で莫大な財力を得た。この結果5年間で3,200キロの南下が成し遂げられることとなった。しかしゴメスとの契約は5年で打ち切られた。そんなに儲かるならポルトガル王室自らが直接この事業を行ったほうがいいと思ったからであった。
 
1482年次の国王であるジョアン2世はディオゴ・カンをギニア湾(アフリカ西海岸のL型になった大きな湾)に派遣することを決定した。カンはその期待に応え、1360キロにも及ぶ未踏の航路を開拓するのに成功した。彼がこの時到達したのは現ナミビアのクロス岬(赤○)である。
 
※前編「大航海時代のポルトガルが抱いた野望その1」へのリンク

そしてディオゴ・カンの後に登場するのがこのバルトロメウ・ディアス(1450頃~1500)である。読者諸兄におかれては喜望峰に初めて到達した西洋人はヴァスコ・ダ・ガマとお考えのかたもいらっしゃるのではないだろうか?しかしそれは違う。バルトロメウ・ディアスこそ初めてアフリカ最南端を廻った人物なのである。

これはちょうどディアスが活躍した15世紀後半に作られた世界地図である。アフリカ大陸とその南の大陸の間の航路が微妙な表現になっている。

それではディアスは一体どのような船に乗ったのだろう?彼の乗った船はカラベルと言われ、左側の船に近いクラス120トン級であった。126年後に日本の支倉常長率いる慶長使節団が乗った船(サンファンバウティスタ号)が500トン級なのでそれの四分の一程度の船だったのである。

そして船の全長は27メートル程度であった。

記録によるとディアスは3隻の船団を組んで1487年8月にリスボア(現リスボン)を出航したとある。

当時の出航はこのようなものであったと想像される。

ディアスが乗った船はこのようなカラベルであったと推測される。

航路図をご覧頂きたい。ディアスはクロス岬までは順調に航海したものの、その後13日間にも及ぶ嵐に遭遇した。嵐が過ぎ去り北に向かうとついに待望の陸地を視界に捉えたのであった。しかし船内は緊迫していた。疲れ果て食料が底をついて乗組員が氾濫寸前に陥ったためであった。乗組員はこれ以上進むのを拒否したためにディアスはやむを得ず引き返すことにした。そして大きな岬を発見し「嵐の岬」と名づけた。この岬こそかの有名な喜望峰(ジョアン2世命名)である。

アフリカ最南端(厳密には最西南端)、嵐の岬改め喜望峰

実はこのとき、ジョアン2世は全くルートの異なる別の使節も派遣していた。ペロ・デ・コビリャンとアフォンソ・パイバである。パイバはすぐ亡くなったがコビリャンはインドやエチオピアに入国し国王に報告書を送った。これが後のヴァスコ・ダ・ガマのインド派遣に繋がったのであった。

ジョアン2世の命により、ディアスは必死になってこのようなパドラン(到達碑)を立てたと思われる。

乗組員の反対でポルトガルに戻ったディアスであったが、彼は紛れもなくアフリカ最南端を最も始めに訪れた西洋人であった。

次回は本シリーズのハイライトであるヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓をお伝えする。
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