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 ポルトガル国歌直訳  
 この曲は1910年に作られた曲であるが、私は大航海時代の同国の抱いた野望を現代に伝えるものと判断し、また海洋王国と言われた同国に敬意を表し、熟慮の上で掲載を決めたものである。この曲には様々な曲折を乗り越え、海外への進出を果たした同国の威厳とフロンティア精神を強く感じるのである。
 
海の勇者、気高き人々。勇敢で永遠なる国、今こそ再び立ち上がれ。
 
ポルトガルに栄光を!

追憶の霧のかなたから、おお祖国よその声を聞け。

偉大なる祖先の声を聞け。汝に勝利をもたらすその声を。
 
<コーラス>
 
武器を持て、武器を持て!陸に海に繰り出せ!
 
祖国の戦いのために。砲撃をかいくぐって進め、進め!
いよいよ明日から新年を迎える。きょうは少し早いが新春特集として15世紀前半から16世紀前半にかけてのポルトガルのアフリカ西海岸征服、インド航路開拓について文献に基づき、数回に分け渡り皆さんにお伝えする予定である。今回参考にした文献は①ヴァスコ・ダ・ガマ(生田滋著、原書房出版)②歴史を変えた大航海の世界地図(青春出版社)の2冊である。

まず「プレトマイオス世界地図」をご覧頂きたい。プレトマイオスは2世紀頃活躍した天文学者であるが、この地図は15世紀にポルトガルがアフリカ西海岸に進出するまで実に1300年近くに渡って変わることがなかったのである。それは一体何故なのか?
 
それはアフリカ大陸がどこまで続いているのかわからなかったため、ずっとそのままだったのだ。そして南の大陸(一見今の南極大陸にも見える部分)にアフリカが繋がっていると考えられていたのである。
 
PS:ローマは世界の中心と言われていたがこの地図を見る限りその言葉がわかるような気がする。

日本の天下人(信長、秀吉、家康)を見てわかるように歴史を塗り替えた人物の多くは野望を抱いた人物である。きょう紹介するのはポルトガルのエンリケ航海王子である。
 
エンリケ航海王子(1394~1460)以下グレゴリウス講座より抜粋

1394日、ポルトガルのポルトにおいて、国王ジョアン一世の三男として生まれ。探検事業家として航海者たちに指導と援助を与え、それまで未知の領域だったアフリカ西岸の踏破を達成させ、大航海時代の幕を開いた人物1414年、21歳となったエンリケは、父ジョアン一世とともに、アフリカ北岸のイスラム都市セウタの攻略戦に参加する
 
翌年月にはセウタを陥落させ、ポルトガルがアフリカ一帯へ進出する基礎を築く彼はセウタ遠征の際、アフリカに存在すると言われているキリスト教信仰国の国王プレス・ジョンの伝説を聞き、アフリカ西岸航路の開拓、さらにはインド航路開拓への野望を抱く。
 
※エンリケ航海王子が征服したアフリカのセウタ

15世紀に於けるポルトガルとカスティーリャ(現スペイン)の勢力範囲をご覧頂きたい。赤:ポルトガル王国、黄色:カスティーリャ王国、ピンク:エンリケ航海王子が征服したセウタ。
 
このころから両国は激しい海外進出争いを演じていたのがわかる。

エンリケ航海王子時代のアフリカ西海岸のポルトガルの征服の経緯をご覧頂きたい。
 
※1416年頃、彼はポルトガルの最南西端であるサンヴィセンテ岬のサグレスに、王子の村を建設、更に造船所、天体観測所、航海術や地図製作術を学ぶ学校などが開設するこれによって往時の航海術や地図製作術大きな発展がもたらされることになる。またこの地に程近いラゴスは、大航海時代の造船地帯として発展を遂げ
 
※1418年年12月にエンリケが派遣したジョアン・ゴンサルヴェス・ザルコとトリスタン・ヴァス・テイシェイラは翌年マデイラ諸島を発見し、植民地化されることになったこれはエンリケにとって最初の成果であった。
 
※1420エンリケはテンプル騎士団の後継であるキリスト騎士団の指導者となり、莫大な資産を保有する騎士団は、探検事業への強力な資金源とな1427年、エンリケが派遣したディオゴ・デ・シルベスアゾレス諸島を発見する。
 
順調に推移したように見えるポルトガルのアフリカ西海岸南下政策であるが、実はこの時点ではボバトル岬より南部が大きな問題となっていたのである。

何故問題だったのか?この資料をご覧頂きたい。当時この岬から南は 全くの未知の世界であり様々な迷信(海が切れて崖のようになっている。或いは5、6キロ岸から離れても水深30センチしかない煮えたぎった海が広がる…、

 そしてこの魔の海域には海坊主や怪物が住んでいる)と考えられていたのである。これは往時の航海者にとって、身の毛もよだつような恐怖だったのである。

1433年にエンリケ王子の従者であったエアネスはこの恐怖を克服できずカナリア諸島まで南下してポルトガルに戻った。このときこの迷信を全く信じていなかったエンリケ航海王子はエアネスをこう叱責した。「世界に言われている根拠が少しでもあるのなら私はそなたを責めはしない。」
 
ポルトガルのアフリカ西海岸南下は迷信による恐怖の克服とともにあった。この言葉に奮起したエアネスは1434年ついにボバトル岬まで船を進め、今までの迷信を打ち破ったのである。
 
※エンリケ王子は航海者にこのような碑(パドラン)を立てさせ、ポルトガルのアフリカ南下政策の成果を示した。 

※当時のポルトガルの船の経緯をご覧頂きたい。これはナウと言った近海向きの船である。

これはナヴィオという船で3枚帆が使われている。徐々に遠洋航海可能なものに進化してきているのがおわかりと思う。

これはキャラックという船(旗艦)である。このあたりになると数隻の船団を意識したものとなっている。

この後のポルトガルのアフリカ西海岸到達をお伝えする。
 
※1441年、ヌーノ・トリスタンとアントン・ゴンサルヴェスが現在のモーリタニア沿岸に位置するブランコ岬に到達。翌々年の1443年にはアルギン湾に達し、1448年にはこの地にポルトガルの要塞を築く。
 
※1444年、後にアフリカ最南端を発見したバルトロメウ・ディアスの父であるディニス・ディアスがセネガル川とヴェルデ岬に到達。ギニアを訪れるとともに、サハラ砂漠の南端に達する。これによってサハラ砂漠を通過することなくアフリカ南部の富を手に入れる画期的な航路を確立する。
 
※1444年から1446年にかけ、およそ14隻の探検船がラゴスの港より出港し、1450年代、ヴェルデ岬諸島を発見。1460年には、シエラレオネまで達する。同年の1113日、エンリケは王子の村において66歳の生涯を閉じた。そして王子の遺志はバルトメロウ・ディアスに引き継がれることになる。
 
この後のことは明日以降にお伝えする予定である。
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